【第4回】 世界に広がる創価教育の光 ㊤  2012.9.21/22

「いじめ」のない社会で「いのち」は輝く
 
人間は慈悲と肝要の存在だ。憎むことを後から学ぶのだ。ならば愛することも学べる。
 
 私は幸運にも、19歳で希有の大教育者・戸田城聖先生にお会いすることができました。
 残酷な戦争によって無数の命が奪われ、国破れて荒廃した戦後の社会にあって、わが師は、仏法という究極の「生命尊厳」の法理を、私たち青年に示してくださったのです。
 戦時中、軍国主義による2年間の投獄にも断じて屈しなかった恩師の信念の言葉は、絶対に信じられる希望の響きをもって、若き命に迫ってきました。
 青年を利用し、犠牲にしてきた権力者と敢然と対峙して、先生は青年を愛し、信じ、自らの心血を注いで薫陶してくださいました。
 先生が一人立って開始された「人間革命」という未聞の平和運動は、自身の内面から智慧と勇気を引き出して、一人一人が現実社会に貢献していくものです。
 その意味で、先生の青年への指導は、人間教育の真髄であったといっても、決して過言ではありません。
 先生の弟子となった私は、この仏法を友に伝えようと、勇気を出して対話を始めました。一生懸命に語りました。しかし、誰も信心しようとはしません。真っ向から反対した友人もいました。
 それでも諦めず、粘り強く対話を続けました。そのなかで最初に入会して、わが同志となったのが、学校の教師をしていた方でした。
 御聖訓に、「我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書467ページ)という一節があります。
 私自身、65年間、仏法を語り抜いてきた歴史は、黄金の「今生人界の思出」と輝いております。なかでも格別に忘れ得ぬ第1号の折伏は、不思議にも教育者だったのです。
 また、その後も、多くの若き教育者を仏法に導くことができました。
 各地で活躍しておられる教育本部の皆様は、同じ心で、同じ哲学を掲げ、人間教育に邁進してきた、かけがえのない宝友たちです。
 そして今、妙法の教育者の陣列が、かくも壮大な世界への広がりとなったことを、私は万感の思いを込めて、恩師に報告させていただきたいのであります。
 わが教育本部の同志のご健闘を讃え、私の教育を巡る所感を綴ってきた本連載も、今回で最終回となります。教育関係者の皆様方はもとより、各方面から深い理解や共鳴の声をいただき、心より御礼申し上げます。
 この連載のさなか、教育現場における「いじめ問題」が、社会問題として、これまでにもまして、ニュースにも取り上げられるようになりました。
 そして、現代における「いじめ」は、かつてのいじめっ子や、遊び・ふざけの範疇を遥かに超えて、「いのち」に関わる問題であることが、あらためて認識されました。
 本来、「いのち」を育む希望の世界であるべき教育の場で「いじめ」を受け、死を選ばなければならなかったお子さん方に、私は、仏法者として、追善のお題目を送っております。
 日蓮大聖人は、「命と申す財にすぎて候財は候はず」「三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」(御書1596ページ)と宣言されました。
 一人の「命」は、全宇宙の財宝にも勝ります。この命を最大に光り輝かせていく営みこそ、教育であります。軽んじられてよい「命」など、一人としてありません。この「命」を踏みにじる権利など、誰人にもありません。
 「暴力は断じて否定する」「いじめという暴力を絶対に許さない」。このことを教えることこそ、教育の出発でなけれぱならないでしょう。
 これは、創価学園創立者として、私の厳然たる精神でもあります。この連載でも強調したように、私は「いじめ」を断固として許しません。いじめは「いじめる側が100%悪い」と訴えてきました。
 しかし、「いじめ問題」がなくならないのは、「すべての大人の責任」です。なぜなら、子どもたちは大人の鏡だからです。大人社会の歪みが、元凶だからです。
 子どもたちを「いじめ」へと突き動かす心の闇に、今こそ光を送らねばなりません。
 現在は、国を挙げて「いじめ問題」に取り組む方針も示され、専門の諸先生方による真摯な議論が重ねられています。
 わが教育本部の皆様方も、「いじめ問題」については、さまざまな場で討議され、それぞれの教育現場でも懸命に努力を続けておられます。
 そうした、すべての方々のご尽力に、私は満腔の敬意を捧げるとともに、私自身、教育事業の総仕上げをする決心です。
 創価教育学の父・牧口常三郎先生は、言われました。「行き詰まったら、原点に返れ」と。
 では、教育の返るべき原点は、どこにあるのか。
 それは、「対話」にあるといえないでしょうか。
 教育は、「対話」より出発し、「対話」に帰着するといってもよいでありましょう。
 牧口先生は『創価教育学体系』で、デンマーク近代教育の父グルントヴィと弟子であるコルについて言及されています。このグルントヴィとコルの師弟が目指したのが、生きた言葉による「対話の教育」の実践でありました。
 また、牧口先生が、教師の理想とされていたスイスの大教育者ペスタロッチも、「対話」を重視しました。その名を世に知らしめた教育小説『リーンハルトとゲルトルート』は、まさに対話形式で書かれており、家庭での母と子の生き生きとしたやりとりが描かれています。
 教育の活力も、教育の喜びも、教育の触発も、教育改革の知恵も、この「対話」からこそ、滾々と湧き出ずるものでありましょう。
 人類の教師と仰がれる釈尊は、「喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自分のほうから先に話しかける人」であった、と伝えられます。仏とは、悟り澄まし、権威ぶった存在などではない。むしろ、快活に気さくに自ら声をかける──ここに仏の振る舞いがあります。
 それは、人間教育者の真骨頂とも通じているはずであります。
 牧口先生も、小学校の校長として、時間を見つけては、授業の様子をそっと見守り、校内を歩いては、一人一人の児童の表情や体調を気づかい、「どうしたの?」「大丈夫かい?」「話してごらん」等々、優しく声をかけていかれたといいます。
 牧口先生は、勉強のこと、友だちとの関係のこと、家庭のことなど、児童が心につかえていた思いを語り出すのを、じっと聞かれていきました。そして、アドバイスや励ましを送られるとともに、打つべき手を迅速に打っていかれたのであります。
 こうした牧口先生との語らいを、一生涯の宝とし、感謝を捧げた教え子たちは、大勢いました。
 「問題が起こったら、その場、その場で解決しなくてはいけない。問題を放置して残しておけば、必ず事は大きくなる。大きくならないうちに解決するのだ」──これが、牧口先生の信条でした。
 常日頃から、声をかけ、子どもたちが発するサインや変化、言葉にならないSOSを鋭敏にキャッチしていく。こうした心の交流が、ますます大事になってきているのではないでしょうか。
 牧口先生は、教育と医学は「兄弟姉妹のような応用科学」と呼びました。それは、ともに一番大切な「人間の生命」を対象としているからです。アプローチは異なっても、生命力が萎縮するのを防ぎ、生命力が伸び、拡大するのを助ける応用科学ともいえます。
 数え切れない貴重な臨床例の積み重ねが、医学の目覚ましい進歩をもたらし、多くの人命を救えるようになりました。そうした医学の緻密な取り組みから、教育界も大いに学ぶべきだと、牧口先生は促されたのであります。
 その意味において、直系の創価学会教育本部の皆様方が実践事例を積み重ねて、分析し、普遍的な教育技術に高める努力をされていることは、教育の進歩に大きく貢献するものであり、牧口先生もきっと喜んでくださることでありましょう。
 わがドクター部の皆様方のお話を伺うと、医学の最前線においても「対話」が重視されています。
 医療の現場でも、現在は「インフォームド・コンセント」(説明と同意=患者が、医療者から治療の内容や目的などについてよく説明を受け、同意した上で治療が施されること)が行われています。すなわち、同意が得られるまで説明が続けられ、「対話」が重ねられるといいます。
 病院においても、「患者さんの声に耳を傾ける」「相手のことを思いやる」などの「対話の文化」が尊重されて、誠実で心豊かなコミュニケーションの努力と創意工夫が重ねられています。
 御書には、「人がものを教えるというのは、車が重かったとしても油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて進みやすいように教えるのである」(1574ページ、通解)と説かれております。
 一人一人の「生命」が持つ本然の可能性を、伸びやかに解き放ち、そして、滞りなく自在に前進していけるように、励まし、導いていく──ここに、教育の本義があり、その潤滑の智慧、推進の力を送りゆくものこそ、対話ではないでしょうか。
 ゆえに、私は、どんなに困難で複雑な現場にあっても、子どもたちを取り巻くすべての皆様に、「それでも対話を!」と申し上げたいのであります。そして、「子ども第一」で、何より「一番苦しんでいる子どもの側」に立って、対話を進めていただきたいのであります。
 親や周囲には心配をかけたくないと、悩みを誰にも言えずに、一人で小さな胸を痛めている子どもたちも決して少なくありません。身近な大人からの真心こもる「声かけ」が、どれほど心を照らす希望の光となることでしょうか。
 「いじめ」のない社会を築いていくことは、「人間の尊厳」を打ち立てる人権闘争であります。
 アフリカの人権の大英雄ネルソン・マンデラ元大統領は、27年半に及ぶ投獄にも耐え抜き、20世紀中には不可能ともいわれた「アパルトヘイト」の人種差別の撤廃を実現しました。
 元大統領は語っています。
 「あらゆる人間の心の奥底には、慈悲と寛容がある。肌の色や育ちや信仰のちがう他人を、僧むように生まれついた人間などいない。
 人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことが学べるのなら、愛することだって学べるだろう」
 至言であります。
 人間は、誰人も尊厳な存在であり、いじめてはならないし、いじめさせてもならないこと。一人一人を大切にして、皆で共に仲良く明るく生きていくべきであること。また、必ず、そうできること──。このことを、私たちは、あらためて、子どもたちと一緒に学んでいきたいと思うのであります。