第1部 幸福への指針

第1部 幸福への指針
 
第1章 真の幸福とは?
 
この章を読むに当たって
 人は誰しも「幸福」を追い求めて生きています。しかし、「幸福」といっても、その内実は人ごとに千差万別です。様々な「幸福」の中で、誰もが心から満足できる「真実の幸福」は存在するのでしょうか?
 この章では、「相対的幸福」と「絶対的幸福」という2つの幸福観を示します。
 「財産がほしい」「名声がほしい」「地位がほしい」といった願いが叶うのは、「相対的幸福」です。こうした願いは際限がないものですし、たとえ叶ったとしても、時がたてばむなしく消え去ってしまいます。また、他の人と比べればたちまち色褪せもします。思い描いていたような満足感が得られず、後悔することもあるでしょう。「相対的幸福」のみを追求していても、真実の幸福の人生は築けません。
 これに対し、どのような苦悩や逆境に見舞われようとも、それを力強い生命力と豊かな知恵で乗り越え、「生きていること自体が楽しい」という境涯を、現実の人生において築いていくことが「絶対的幸福」です。万人が目指すべき人生の根本的な目的も、何より「絶対的幸福」の実現にこそあります。
 13世紀の日本に誕生した日蓮大聖人は、万人が自身の内なる仏界の生命を開くことによって「絶対的幸福」を実現する方途を確立しました。この大聖人の仏法を現代にあって地球規模で生き生きと展開しているのが、SGI(創価学会インタナショナル)です。
 次章以降では、本章で示された幸福観を踏まえ、生命変革の原理とその実現の方途を具体的に示していきます。
 
1-1 「絶対的幸福」のための信心
 どうすれば、いちばんいい人生が生きられるか──万人の根本問題に明快に答えたのが仏法です。日蓮大聖人は、自らが覚った妙法を全世界の民衆の幸福のために御本尊として顕しました。この節では、万人が求めるべき幸福とは、時とともに消え去るような「相対的幸福」ではなく、最高の歓喜智慧と慈悲に満たされた、揺るぎない「絶対的幸福」であることを示します。さらに、仏法の三世の生命観を踏まえ、御本尊を信じ祈りぬいて、限りない生命力を湧き上がらせていけば、過去世からの宿命を現世で転換し、現世から来世へ「絶対的幸福」を開いていけると強調します。
 
【池田SGI会長の指針】
◎タイ総会でのスピーチから
                    (1994年2月6日、タイ)
 「人生、いかに生きていくか」「どうすれば、いちばんいい人生が生きられるか」──これこそ、万人にとっての根本問題である。生まれてきた以上、この課題を避けられない。
 これを追究したのが多くの哲学であり、思想であり、宗教である。また、政治や経済、科学なども、根底は、この課題と切り離せない。全部、人間がいちばん幸福に生きるための手段のはずである。しかし、これらのすべてが、「何が最高の人生か」に答えられない。明確な結論がない。誰人も納得できる道理のうえでの答えがない。
 これに、明快に答えたのが仏教である。釈尊であり、天台大師であり、日蓮大聖人であられる。釈尊の結論と、大聖人の結論は、まったく同じなのである。そのうえで、日蓮大聖人は、その結論に基づいて、万人が幸福になるための具体的な機械を残してくださった。戸田先生が「幸福製造機」とたとえられた御本尊を、全世界の民衆に与えてくださったのである。
 人間、何が幸せか。
 タイのことわざに、こうある。
 「偽物の幸福は人を図に乗らせ、醜く高慢にしてしまう。真実の幸福は人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たしていく」
お金があるから幸福といえるか──。お金のために人生を狂わしていく人もあまりに多い。
 戸田先生は、「相対的幸福」に対して、「絶対的幸福」を説かれた。
 人と比較してどうとか、また時とともに消え去るような、はかない幻の幸福ではない。どんな時でも、「生きていること自体が楽しい」という境涯を開いていく──そのために信心するのだと教えられたのである。
 そうなれば、「真実の幸福は人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たしていく」とあるように、最高の歓喜と知恵と慈悲がわいてくる。
 御書には「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(761㌻)──自他ともに「智慧」と「慈悲」があるのを「喜」(喜び)というのである──と仰せである。
 自分も人も「絶対的幸福」をつかんでいくための信心であり、広布の組織なのである。
 人生、いろいろなことがある。悲しみがあり、苦しみがある。毎日、いやなこともある。夫婦げんかもあれば、離婚して不幸になる場合もある。仲が良くても、子どもが病気になることもある。自分が病むこともある。ありとあらゆる悩みがある。生きていくことが、どれほどたいへんなことか──。
 その人生を「生きて生きぬく」ためのエンジンが信仰である。ロケットのように、悩みの雲を突きぬけて、ぐんぐん上昇していく。生き生きと、限りなく向上していく。幸福の大空を遊戯《ゆうげ》していく。そのための噴射力が信心である。
 南無妙法蓮華経と唱えれば、「生きぬく力」がわいてくる。「希望」がわいてくる。煩悩即菩提で、悩みを喜びに、苦しみを楽しみに、不安を希望に、心配を安心に、マイナスをプラスに、すべて変えながら生きぬいていける。絶対に行き詰まりがない。
 大聖人は「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書947㌻)──妙とは蘇生の義である。蘇生とは蘇るということである──と仰せである。
 個人も、団体も、社会・国家も、すべてに「生きゆく活力」を与え、みずみずしく蘇生させていく。それが妙法の偉大なる力である。
 人間には、宿命もある。
 「自分は、もっとお金持ちの家に生まれたかった」──しかし生まれてこなかった。
 「自分は、もっと美人に生まれてきたかった」──しかし……もちろん、タイの人は皆、美しい。これは、よその国の話である(笑い)。
 その他、宿命的な、いろいろな課題がある。これは根本的には、三世という生命観から見なければ、わからない。厳然と前世があり、因果がある。
 前世に、地球にいたとはかぎらない。天文学でも今や、莫大な数の星がある宇宙には、人間のような知的生物がいると考えられている。
 そして今、私どもは、ここに、現実に生まれてきた。これは厳粛な事実である。この自分自身をどうするか。どう宿命を転換し、すばらしき最高の人生を創っていくか。
 結論していえば、信心こそが、すべての宿命を転換できる。自分のいる、その場を、そのまま幸福の寂光土にしていける。
 そして「現当二世」と教えられているように、つねに、今から未来へ、今から未来へと、どんどん人生を開いていける。来世も、また次の来世も、無限に開ききっていける。無量の「宝」をわが身に開き、わが身に満たして輝いていける。これが私どもの「信心」である。
 
1-2 「相対的幸福」と「絶対的幸福」
 創価学会牧口常三郎初代会長は「最高の価値を創造して最大の幸福を獲得する、それが人生の目的である」と述べ、戸田城聖第二代会長は「絶対的幸福」というのは、生きてそこにいる、それ自体がしわせなのです」と語っています。この節では、こうした洞察をもとに、創価学会が人々の「最大の幸福」「絶対的幸福」を目指す団体であることを示します。
 
【池田SGI会長の指針】
リオデジャネイロ総会でのスピーチから   (1993年2月13日、ブラジル)
 人生の目的は何か。幸福である。仏法の目的も、信心の目的も、幸福になることである。
 大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外《ほか》の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云」(御書1143㌻)──一切の衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はないのである。経(法華経の寿量品)には「衆生の遊楽する所」(創価学会法華経491㌻)──と仰せである。
 あえて分ければ、「遊」とは、人生を自在に生きていくこと、「楽」とは、人生を心から楽しむこと、といえるかもしれない。
 強い生命力と、豊かな知恵があれば、ちょうど、波があるから波乗りが楽しめるように、険しい山があるから山登りが楽しめるように、あらゆる人生の苦難も、楽しみながら乗り越えていける。
 その生命力と知恵の源泉が妙法であるがゆえに、「南無妙法蓮華経と唱えるより外《ほか》に、遊楽はない」と仰せなのである。
 現実は厳しい。その厳しさに堂々と挑戦し、生活のうえでも、職場、学校のうえでも、家庭においても、堂々とすべてを勝っていく。さらに勝っていく。その「無限の向上」の原動力が仏法であり、信心である。
 信心の「知恵」と「生命力」あるところ、すべてを、いよいよ明るい方向へ、いよいよ力強い方向へと向けていける。
 観念ではなく現実に勝利また勝利できる、そういうリズムに入っていけるのが、賢明な真の信仰者である。
 戸田先生は、幸福について、こう指導されている。(昭和30年1月23日、西日本3支部連合総会。『戸田城聖全集』第4巻。以下同じ)
 「幸福というものについて、一言教えておきましょう。それは、幸福には、絶対的幸福と相対的幸福という二つのものがある。絶対的幸福を成仏というのであります」
 「相対的幸福というのは、私は100万円の金がほしい、わしはああいうきれいな奥さんをもらいたい、わしはりっぱな子供をもちたい、ああいう家を建てたい、こういう着物を買いたい、その願いが、一つ一つかなっていくのを相対的幸福というのです」
 「そういうような幸福は、あんまりたいしたものではない。しかし、それを幸福なものだとみな思い込んでいる。
 しからば、絶対的幸福というのは、なにものぞや。絶対的幸福というのは、生きてそこにいる、それ自体がしあわせなのです」
 「絶対的幸福というのは、金にも困らず、健康もじゅうぶんである。一家のなかも平和で、商売もうまくいって、心豊かに、もう見るもの聞くものが、ああ、楽しいな、こう思う世界が起こってくれば、この世は、この娑婆世界が浄土であって、それを成仏というのです」
 「それは、なにものによって得られるか。相対的幸福感から、絶対的幸福感へといかなければならん。これは、この信心以外には、ほかの信心では絶対できないことです。
 それを教えるのに、私は大わらわになっているのだから、疑わずに信じて、そうして、そういう生活になってもらいたいと思う」──と。
 牧口先生は、「『金をためたい、金ができた。家がほしい、家ができた。そこで酒を飲む、ぜいたくをする。もうその先はわからない』。このような種類の人は、人生の目的を知らない人である」とよく話されていた。そして、人生の目的について、「最高の価値を創造して最大の幸福を獲得する、それが人生の目的である」と明確に示されている。
 「創価学会」という名称は、最高の価値を創造し、最大の幸福を実現する団体、という意味なのである。
 人生の目的は、最大の幸福、すなわち絶対的幸福を実現することである。
 絶対的幸福とは、時間がたっても変わることなく、永遠に続くもので、外の条件に影響されることがなく、生命の内からこみあげてくる幸福感といってよい。
 世間的な地位や財産、満足等の一時的なものではない。「法」にのっとって生き、「法」のうえでいかなる位を得ていくか。その「生命の位」は、法とともに永遠である。私どもは永遠の「生命の王者」として生きられるのである。「病気や貧乏でも、幸せだと思えば幸せだ」という考え方もあるが、生命の奥底からの実感であればともかく、観念でそう言ってもしかたがない。
 「心の財」は「身の財」「蔵の財」となって現れてくる。
 私は日々、皆さまの「裕福」「健康」「長寿」を、一生懸命、祈っている。これからも一生涯、祈りに祈っていく。皆さまが、「私の人生は幸福だった」「悔いがなかった」「充実していた」と「所願満足」の一生を送られることが、私の心からの願いである。
1-3 「今生きている場所」で幸福に
 「別の地域に行けば、もっと幸せになれるかもしれない」等々、人は往々にして、幸福を観念の彼方に描きがちです。しかし、本当の幸福は、今生きている場所で現実と格闘しながら希望の歩みを運ぶなかにこそあります。この節では、日蓮大聖人の御聖訓をもとに、今生きている所それ自体を、勝利と幸福の国土にしていく信心の姿勢を示します。
 
【池田SGI会長の指針】
 
◎大学会、豊島区合同研修会でのスピーチから   (1986年12月7日、東京)
 日蓮大聖人は、「御義口伝」で「此人《しにん》とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此《ここ》を去って彼《かしこ》に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今《いま》日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」(御書781㌻)と仰せである。
 これは、「法華経普賢品第28」の、末法法華経を受持し、信行に励む人について「此の人は久しからずして、当《まさ》に道場に詣《いた》りて」(創価学会法華経676㌻)と説かれた文についての御義口伝である。
 「此の人」とは、法華経の行者であり、別しては日蓮大聖人である。総じては三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、実践する人である。そして、この三大秘法の仏法を受持し修行しているその場所こそ、一生成仏にいたる「当詣道場」なのである。
 この娑婆世界を去って、極楽浄土等の他土へ行くのではない。道場とは十界の衆生の住処をいうのである。いま、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱える者の住処は、それが山谷曠野いずこにあっても、すべて「寂光土」すなわち「仏国土」なのである。これを道場といったのである、との仰せである。その人がいる、その場所が「寂光土」になっていく。その「一念」の深さを示唆された御文である。
 人は往々にして、幸福を観念の彼方に描きがちである。たとえば、別の地域に行けば、もっと幸せになれるかもしれない。他の会社に移れば、より豊かな楽しい生活があるかもしれない等々、つねに他に夢を抱き、期待を寄せようとする。若い方々は、なおさらであろう。
 しかし、人それぞれに使命も、生きるべき場所も異なる。
 自分はここで、この世界に深く根を取ろうと決め、現実と格闘しつつ、日々忍耐強く希望の歩みを運んでいった人が勝利者なのである。心定まらず、浮草のようなさすらいの人生であっては断じてならない。
 ゆえに私は、足下を掘れ そこに泉あり”“自己自身に生きよと申し上げておきたい。
 要するに、幸福という実感も、人生の深き満足感も、自分自身の生命の中にある。その根本的が妙法であり、それを自身の大原動力としていけるのが信心である。ゆえに今、信心修行している所が「寂光土」であり、社会が即「寂光土」となる。また今生きている所それ自体を、勝利と幸福の国土としていけるのである。
 
1-4 「幸福の宮殿」は自分自身の生命に
 世間には、財産や名声や地位など、人それぞれの「宮殿」があるものです。この節では、あらゆる人の生命の中に、仏界という永遠不滅の幸福の「宮殿」があることを明かします。そして、信心によって自身の生命の「宮殿」を開いていけば、現実の人生においても物心ともの幸福を築いていけることを示します。
【池田SGI会長の指針】
◎長野県総会でのスピーチから   (1990年8月12日、長野)
 多くの人々が求めてやまない「幸福の宮殿」、永遠不滅の「幸福城」は、どこにあるのか。どうすれば自分のものとすることができるのか──。
 日蓮大聖人は「御義口伝」で次のように仰せである。
 「南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(御書787㌻)──南無妙法蓮華経と唱えることは、自分自身の生命の宮殿に入ることである──と。
 どのような人の生命にも、仏界という金剛不壊の生命の境界《きょうがい》がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の財宝で飾られた、永遠不滅の幸福の「宮殿」である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の宮殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然と輝かせていくことができると教えられているのである。
 世間には、人それぞれの「宮殿」がある。財産や社会的地位を求める人もいる。また、名声や人気や流行などに憧れることもある。しかし、それらは、確固不動の大山のように永遠性のあるものではない。移ろいゆく人生のなかで、ホタル火のごとく、美しく点滅しては、いつしか消え去ってしまうものである。
 はかなく消えゆく世間の栄えを求める人生も、またむなしい。いつかは無常に帰す虚像の幸福に、あれこれと心を動かすことも、またわびしい。
 大聖人の仰せのごとく、自身の生命の最高の境涯──それこそが、永遠にして不滅の「宮殿」であり、「幸福城」なのである。
 どんなに立派な家に住み、多くの富に恵まれていても、心が卑しく、境涯が低ければ、決して幸福とはいえない。それでは、「不幸城」に住む人となってしまう。
 たとえ今は、どのような環境にあっても、心美しく豊かで、境涯の高い人は、必ず物心ともの幸福を開き、築いていくことができる。
 これは、依正不二の原理として説かれているとおりである。依正不二とは簡潔にいえば、依報である環境と正報である主体、自分自身とが一体不二の関係性にあることである。
 また、自分自身の生命の宮殿を開いていくことが、やがて他の人々の幸福の宮殿、社会の繁栄の宮殿を開いていくのである。自身の生命の宮殿を開きながら、それが他の人の生命の宮殿を開いていくという連動性──ここに、仏法のすばらしき方程式がある。
 現代のように複雑で、ともすれば悪の蠢動に巻き込まれがちな社会では、人生を聡明に生きていく知性が大事である。一方、信心は幸福への境涯を開くものである。この信心と知性の両者を磨き深めた人こそ人間王者の姿であり、人生の王道を歩みゆく生命の勝利者なのである。
 ともあれ、信心によって、自分自身の生命の宮殿を三世永遠に輝かせていく。その人こそ最高の幸福者である。
 皆さま方は、広布の活動によって、日々、みずからの生命の中に幸福の「宮殿」を築き、開いておられる。ゆえに、一生成仏は間違いないし、必ずや宇宙大の生命の宮殿に住む幸福の王者となっていけるにちがいない。どうか、その強い確信と誇りをもって、明るく、堂々と信心の大道を進んでいただきたい。
 
1-5 幸福を開く六つのカギ
 「相対的幸福」と「絶対的幸福」という幸福観を踏まえ、この節では、幸福を聞く力ギとなる具体的な六つのボイントを示します。第1に「充実」、第2に「深き哲学をもつ」こと、第3に「信念をもつ」こと、第4に「朗らか」に生き生きと生きること、第5に「勇気」、第6に「包容力」です。これらすべても、結局は「信心」の二字に収まり、信心に生きぬく人生こそが「最高に幸福な人生」であると強調します。
 
【池田SGI会長の指針】
 
◎SGI総会でのスピーチから   (1966年6月23日、アメリカ)
 日蓮大聖人は仰せである。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書970㌻)──一生をむなしく過ごして、万年の間、悔いてはならない──と。
 人生いかに生きるべきか。どう生きることが、いちばん価値があるのか。
 日本の著名な作家の言葉に「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのは苦しきことのみである──と。人生も事実、そのとおりかもしれない。
 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
 どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。愛別離苦は避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。
 いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。これを解決したのが仏法であり、信心なのである。
 結論的にいえば、「幸福は自分自身をどう確立するか」という問題である。立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。揺るぎない「絶対的幸福」ではない。
 どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、苦しみを感じていれば、不幸である。
 最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。
皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。
 幸福は見かけのなかにはない。見栄のなかにはない。自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
 それを前提に申し上げれば、幸福の第1条件は、「充実」であろう。
 「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」──毎日が、そのように感じられる人は、幸福である。多忙であっても充実感がある人のほうが、暇でむなしさを感じている人より、幸福である。
 私どもの場合、朝起きて勤行をする。いやいやの人もいるだろうが(笑い)、勤行をすること自体が偉大である。勤行は、いわば大宇宙を見わたし、見おろしていく荘厳な儀式である。宇宙との対話である。
 御本尊に向かって勤行・唱題することは、わが生命の夜明けであり、太陽が昇ることであり、このうえない生命の充実である。この一点だけでも、私どもは幸福である。