小説「新・人間革命」 激闘36

 山本伸一は、朗々と、「富木殿御返事」の一節を拝していった。
 「『但生涯本(ただしょうがいもと)より思い切(きり)て候(そうろう)今に飜返(ひるがえ)ること無(な)く其(そ)の上又(うえまた)遺恨(いこん)無し諸(もろもろ)の悪人(あくにん)は又善知識(ぜんちしき)なり』(御書962ページ)

 戸田先生が第2代会長に就任された27年前、学会の会員は、実質3,000人ほどにすぎなかった。それが、今では、世界に広がり、約1,000万人の同志が誕生したんです。会館も立派な大文化会館が、全国各地に陸続と誕生しました。皆が歓喜に燃えて、弘教に走っています。
 これだけ広宣流布が進んだんですから、第六天の魔王が憤怒(ふんぬ)に燃えて、競い起こってくるのは当然です。予想もしなかった大難もあるでしょう。大事なことは、敢然(かんぜん)と、それを受けて立つ覚悟(かくご)です」

 哲学者キルケゴールは記している。
 「信仰の強さは、その信仰のために苦難をうける覚悟がじゅうぶんにあるかどうかによって証明される」

 伸一の声は、力強さを増した。
 「大聖人は、『但生涯本より思い切て候』と言われた。題目を唱え始めた時から、大難の人生であることを覚悟されていたんです。そして、その覚悟は『今に飜返(ひるがえ)ること無く』と仰せのように、竜の口の法難、そして佐渡流罪という最大の難局に際しても、決して揺らぐことはなかった。
 覚悟は、生涯、持続されてこそ、本当の覚悟なんです。その場限りの、勢いまかせの決意など、法螺を吹いているにすぎません。
 そして、『遺恨無(いこんな)し』と明言されている。
 大聖人は、『世間の失一分(とがいちぶん)もなし』(同958ページ)と仰せのように、本来、社会的にはなんの罪も犯していない。それなのに弾圧され、迫害されることは不当であり、普通ならば、恨(うら)みをもつのが当たり前です。
 しかし、『遺恨無し』と言われるのは、正法を流布したがゆえに、経文に照らし、仏法の法理通りに、起こるべくして起こった難だからです。むしろ喜びとされているんです」

(2014年 5月 2日付 聖教新聞