【第14回】 医学者 野口英世  (2015.5.1)

私は、5月が大好きです。
大空にも、大地にも、草木にも、そして少年少女のみなさんの心にも、生命のエネルギーがみなぎる季節だからです。
この希望あふれる5月には、大事な記念日があります。
一つは、創価学会の「お正月」というべき、5月3日の「創価学会の日」です。1951年のこの日、私の師匠・戸田城聖先生が、第2代の会長になられた日です。私も、1960年の同じ5月3日、戸田先生の後を継いで、第3代の会長になりました。
毎年、この日を原点とし、目標として、みなさんのお父さんやお母さんたちが、世界の平和と幸福のために前進してくれています。
なかでも、広布のため、また家族のために一番がんばってくれている、婦人部のみなさん方への感謝をこめて、5月3日は「創価学会母の日」にもなっています。
そうして、みんなで晴れ晴れと勝利して、希望をもってむかえるのが5月5日の「創価学会後継者の日」です。未来部のみなさん一人一人の健康と活躍を祈り、創価家族がいっしょに向上しようと決意するのです。
今年も、後を継ぐ少年少女部のみなさんといっしょに、この日をむかえることができて、これ以上うれしいことはありません。
新入生も、新しい学年になったみなさんも、元気かな? 思っていた学校生活と少しちがって、しょんぼりしている人はいませんか?
あせらなくて、いいんだよ!
朝起きたら、「おはよう!」と大きな声で言ってみよう。題目を三唱でもいいから、朗々と唱えてみよう!
そうやって出発すれば、元気がわいてくる。楽しくなってくる。
毎日毎日、ねばり強く挑戦を重ねて力をつけ、人々の役に立つ研究をして世界中から尊敬された人物がいます。それは、医学者の野口英世博士。東北の福島県が生んだ偉人です。
福島県をはじめ東北は、4年前、東日本大震災におそわれました。
はかり知れない苦難のなかで、わが少年少女部のみなさんは、負けじ魂を燃やして成長しています。
今回は、東北の友のことを思いうかべながら、負けじ魂の努力の偉人について学びましょう。
 
野口英世は、1876年11月9日、磐梯山(ばんだいさん)のふもとの村に生まれました。
子どものころは「清作」という名前でした。家は貧しく、屋根はかたむき、かべはボロボロ。お母さんが農家で働いてお金をもらい、3人の子を育てました。
清作が1歳5カ月になった春のこと。お母さんが夕食の準備のために家の外に出た、わずかの間に、清作は、部屋の真ん中にある「いろり」(火を燃やすところ)に手をつっこんでしまいました。
激しい泣き声を聞いて、お母さんが家にかけもどると、清作は左手に、ひどいやけどをしています。しかし、医者にかかるお金はありません。近所の家からもらった薬をぬって、包帯代わりの布でくるみました。
やがて、やけどは治りましたが、左手は、指がすべてくっついて、げんこつのように固まってしまいました。
小学校に入ると、その手を友だちにからかわれました。清作は、いやになって、学校に行かなくなりました。
朝、家を出ると、山の方へ行って過ごし、下校時間に合わせて、もどってきました。
ところが、ある日、お母さんが気づき、涙を流して言いました。
「お前は学問をして偉くなるほかないんだよ。そのために、おっかあは、つらい仕事もしているんだ」
清作は反省し、その時から、学校を休まなくなりました。「よし、勉強しよう!」「やってみよう!」と、一つ一つ学び始めました。生まれ変わったように、がむしゃらに勉強しました。
そのうちに、成績は一番になりました。さらには、先生の代わりに下級生に勉強を教えるまでになったのです。
その姿を見ていた人が応援してくれて、当時は行ける人がとても少なかった、上の学校にも進学できました。往復12キロの道を、暑い日も雪の日も毎日、通いました。人の何倍も努力を続けました。
すると、今度は先生方とクラスの友達が応援してくれ、そのおかげで、有名なお医者さんに、手の手術を受けることができました。15歳の時のことです。
長い間、悩んできた左手が動くようになったのを見た時、政策は医学のすばらしさに感動しました。そして「自分も医者になって、苦しんでいる人を助けたい」と決意しました。
清作の「やってみよう!」と学ぶ心は、自分の行く先を照らし、周りの人を味方にしながら、人生の道を大きく開いたのです。
創価教育の父・牧口常三郎先生は「学は光」と教えられました。学ぶ努力に、むだはない。必ず希望の光に、勝利の光になります。
 
清作は、病院で働きながら医学を学びました。医者になるための試験勉強のほかにも、一生けんめい、がんばった勉強があります。
それは語学でした。英語に加え、辞書を片手にドイツ語の医学の本を読んだり、フランス人を見つけて会話をしたりして身につけました。後には、中国語もスペイン語もできるようになりました。
清作は、医者になる試験に合格した後、英世と名前を変えて、日本で最高の研究所で働き出しました。
ここで、勉強してきた語学が生きてきます。アメリカの有名な医学者・フレキスナー博士が日本を訪れた時、通訳をすることになったのです。この出会いによって、英世は、博士のいるアメリカへわたり、大学で働きながら勉強できるようになりました。そこでも、できることは何でもしようと、だれもやりたがらない研究にも取り組み、成果をおさめていきます。
フレキスナー博士は、英世がどこに行っても、はげまし続けてくれる生涯の師となりました。
英世の活躍の舞台は、世界に広がりました。中南米エクアドル、メキシコ、ペルー、ブラジル、アフリカのガーナなどで、病気のもとになる「細菌」の研究に取り組みました。何度失敗を重ねてもあきらめず、治らないと言われていた病気の原因を、徹底的につきとめていきました。その研究がもととなり、多くの命が救われて、今も世界中の人々に感謝されています。
 
野口英世のモットーは「忍耐」であり「努力」です。「誠実」こそが勝利の ひけつ とも言っています。
人類の歴史に残る研究をした英世でしたが、自分には欠点がたくさんあることも知っていました。
たとえば、自分のことより仕事が大切で、熱中すると、まわりのことも目に入りませんでした。あまりに負けずぎらいだったため、将棋をやると勝つまでやめませんでした。
しかし、誠実をつらぬくなかで、短所も長所へと変わりました。お母さんや師匠の先生などお世話になった方々への感謝をずっと忘れず、お金のためより人のために働きました。一度始めたら、最後まで全力で仕事をやり抜きました。
みなさんも、何でも勉強してみよう。挑戦してみよう。まずは、やってみることだ。失敗したら、やり直せばいい。とちゅうから別のことに挑戦しても、かまわない。ともかく、エンジン全開、全力でぶつかることだ。
 
日蓮大聖人の御書には、「しし王は百獣をおそれない。ししの子も、また同じである」(1190㌻、意味、「聖人御難事」)とあります。
ししの子は、おそれなく学ぶ。
ししの子は、全力で挑戦する。
ししの子は、負けない。
ししの子は、最後に必ず勝つ!
さあ、この5月、勇気の心で、何かを始めよう!
 
※ 参考文献は、丹実著 『野口英世 第一巻 伝記』 (講談社)、丹実著 『野口英世 第四巻 回想』 (講談社)、『野口英世少年期』 (財団法人野口英世記念会編)、山本厚子著 『野口英世は眠らない』 (集英社)、田中章義著 『野口英世の母シカ』 (白水社)、北篤著 『正伝・野口英世』 (翠楊社)、小暮葉満子・田崎公司編 『野口英世――21世紀に生きる』 (日本経済評論社)、浜野卓也著 『おもしろくてやくにたつ子どもの伝記1 野口英世』 (ポプラ社)ほか。