小説「新・人間革命」 清新16 2016年年7月2日

元藤裕司は、釜石の、そして、三陸広宣流布を心に描いた。そのために自分に何ができるかを考え、身近なことから第一歩を踏み出そうと思った。
地域の同志のために、「聖教新聞」の配達をやらせてもらおう!
彼は、意欲的に、仕事、学会活動に取り組んだ。やがて結婚した。
勤務していた建築会社の倒産、自身や義父母の入院・手術などが続いたが、常に唱題を根本に、一つ一つ乗り越えていった。
空気圧機器の大手企業への就職も勝ち取った。
地域貢献になればと、消防団の活動にも参加した。
元藤は、よく妻の福代と語り合った。
「私たちは、学会員として、地域の人たちの幸せのために生きよう!」
福代も、山本伸一が出席した水沢文化会館での行事に参加し、激励を受けていた。
裕司は、岩手が生んだ詩人・童話作家宮澤賢治が好きであった。その作品のなかでも、「雨ニモマケズ」の詩に心が引かれた。
「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ……」(注)
雨にも、風にも、雪にも、夏の暑さにも負けない体と強い志をもって、淡々と質素に生き、苦悩する人びとと同苦し、寄り添い、献身する心に共感を覚えるのである。
自分もそんな生き方をしようと心に決め、ひたすら三陸広宣流布に走ってきた。
支部長も務めた。「地域の柱に」との伸一の言葉が耳から離れなかった。また、
「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ」(御書一四六七ページ)との御文を心に刻み、猛然と走り抜いてきた。
──二〇一一年(平成二十三年)三月十一日、あの東日本大震災が起こった。三陸は大地震、大津波に襲われた。
元藤の住む釜石でも、多くの地域が街ごと流された。マンションの四階まで津波にのまれた。
この苦難の大波に、彼は、身悶えながらも挑み続けた。信心ある限り、光はある。
 
小説『新・人間革命』の引用文献
注 『宮澤賢治全集第十二巻』筑摩書房=現代表記に改めた。