小説「新・人間革命」 清新20 2016年年7月7日

被害の大きかった岩手県大船渡市にある県立大船渡病院に、一人の臨床研修医がいた。二十七歳の塩田健夫である。
この震災の日が、二年間にわたる研修の最終日であった。
彼は、大揺れの直後、高台にある病院の窓から、津波が街をのみ込んでいくのを見た。
次々と患者が運び込まれてきた。瀕死の重傷を負った人もいる。二十日間、病院に寝泊まりして、診察、治療にあたった。
──塩田が七歳の時、弟が生まれた。母親は出産後も、毎日、病院に行ったきりの生活が続いた。
弟は「全結腸無神経節症」と診断されていた。
大腸や肛門を動かす神経が機能しない病である。
一年十カ月で弟は、その生を終えた。初めて病室に入ることが許された。抱きしめた体は、まだ温かかった。命のはかなさが幼い心に染みた。
塩田は、中学、高校と創価学園に学んだ。高校三年の卒業記念撮影会の折、彼は創立者山本伸一に語った。
「必ず医師になります!」
私立大学の医学部に進んだ。しかし、二年後、父の工務店が倒産した。債権者が、ひっきりなしに自宅に取り立てにやって来る。もう授業料を払える状況ではない。
祈った。 絶対に医師になる! 約束を果たす!
岩手県に医師養成の奨学金制度があることを知る。将来、岩手県内の公立病院で一定期間勤務すれば、返還も免除されるという。この奨学金によって、塩田は窮地を脱した。
卒業後、大船渡病院に研修医として勤務。そして震災に遭遇したのだ。必死で診療にあたった。
疲労は限界に達していた。しかし、自分に言い聞かせた。
この時に巡り合わせたことは、決して偶然ではない。このために、ぼくはいる!
今、頑張らずして、どこで頑張るというのだ!
人生には、正念場がある。その時に最高の力を発揮できる人こそが勝利者となる。
彼の奮闘は、患者に勇気を与えもした。
その後も塩田は、恩返しの思いで岩手県内の病院に勤め、医療に従事することになる。