小説「新・人間革命」源流 18 2016年9月22日

大槻明晴は、山本伸一と関西の各大学会の代表との懇談が行われた一カ月後の一九七二年(昭和四十七年)七月、インドへ渡り、ベナレス(後のバラナシ)のサンプールナアナンド・サンスクリット大学に入学した。
二年後に帰国し、貿易会社で二年ほど働き、さらに七六年(同五十一年)三月から再びインドに留学し、ボンベイ大学(後のムンバイ大学)の大学院に学んでいた。
彼は、「七年後に皆でインドへ」という、伸一との約束の時を、インドの大学院生として迎えたのである。
「インド文化研究会」のメンバーは、七九年(同五十四年)二月四日、ニューデリーに到着した。
ガヤ、パトナ、カルカッタ(後のコルカタ)など、インド各地を十日間にわたって訪問し、仏教遺跡をはじめ、社会状況や人びとの生活などを視察するほか、現地メンバーとの交流を行うことになっていた。
大槻は、懐かしい「インド文化研究会」の友をニューデリーの空港で迎えた。
六日の午前零時過ぎ、ニューデリーに着いた伸一は、すぐさま彼らに伝言した。
「今日、私はデリー大学を訪問しますので、そのあとに、お会いしましょう。楽しみにしております」
そして、このローディー庭園で、メンバーとの再会が実現したのである。
「先生! こんにちは!」
青年たちの元気な声が響いた。
「やあ、元気だったかい。とうとう約束を果たしたね。目標にしてきたインドに集まったんだから、全員で記念撮影をしよう」
伸一と共に、皆でカメラに納まった。
それから大槻の案内で園内を散策した。
伸一は、広宣流布の決意に燃える青年たちが今、インドの地に集ったことを、戸田先生はどれほどお喜びか!と思った。
師から弟子へ、そして、また弟子へ――世界広布は、その誓いと行動の継承があってこそ可能となるのである。