【第24回】 世界の若人と広布の山を (2016.9.2)

 
台風が猛威(もうい)を振(ふ)るった東北、北海道はじめ各地の方々に心からお見舞い申し上げます。
被災された皆さま方は大変でしょうけれども、「わざはひも転(てん)じて幸(さいわい)となるべし」(御書1124ページ)と仰せの如く、必ずや変毒為薬(へんどくいやく)していかれますよう、真剣に祈っております。
 
いずこにあっても、創価家族は意気軒高(いきけんこう)である。
先日(8月28日)、久方ぶりに東京・大田区の森ケ崎(もりがさき)文化会館を訪れると、地元の三つの支部の同志がにぎやかに集われていた。
和気あいあいと座談会が行われ、婦人部総会の準備も進められていると伺(うかが)い、「ふるさとに帰ってきました」と伝言を託して、題目を送らせていただいた。
誇り高き法城(ほうじょう)は、守る会の方々の真心で荘厳(そうごん)され、牙城会の青年が凜々(りり)しく厳護(げんご)してくれていた。
会館の庭には、牧口先生のご揮毫(きごう)「生々世々」の記念碑と、「森ケ崎海岸」の詩碑(しき)がある。
周りを彩(いろど)る折鶴蘭(おりずるらん)は、50年以上前、わが家から友人たちに差し上げた株分けの生命力豊かな子孫だ。
 懐(なつ)かしい周辺の地域も、見違えるように発展していた。蒲田支部の2月闘争(1952年)で奔走(ほんそう)した「今生人界(こんじょうにんかい)の思出(おもいで)」も蘇(よみがえ)ってくる――。 
「一句をも人にかたらん人は如来(にょらい)の使(つかい)」(同1448ページ)との御聖訓のまま、皆で勇(いさ)んで対話に打って出た。
新しい人と一緒に訪問・激励に歩いた。小さな集いで一緒に勤行・唱題した。
学会歌を一緒に歌い、友人へ弘教に向かった。「一緒に」という同志愛の中で、地涌(じゆ)の人材が育った。
当時、支部の会場だった私の妻の実家に来て入会を決意したお母さまがいる。後継のご子息(しそく)が、アメリカ広布の指導者として名指揮(めいしき)を執(と)るようになったことも、不思議(ふしぎ)な縁(えん)である。
「物(もの)だねと申すもの一なれども植(う)えぬれば多くとなり」(同971ページ)
妙法の下種(げしゅ)は、時とともに無量(むりょう)の広がりとなる。
 
月闘争の渦中(かちゅう)、立ち寄ったお宅で留守番をしている未来部の友がいた。
私は紙に、大勢の人が富士山の山頂を目指す絵を描いて見せた。そして最後に、麓(ふもと)から勇敢(ゆうかん)に進み始める若人(わこうど)を大きく加え、「これが君だよ。将来、一緒に広布の山を登ろう!」と贈った。
世界から尊(とうと)き青年リーダーも来日した。さあ共々に新たな広布の山を登攀(とうはん)だ!