小説「新・人間革命」大山 五十九 2017年3月13日

1951年(昭和26年)の1月6日、万策尽きた戸田城聖が書類整理をしながら語った言葉は、山本伸一には楠公に歌われた楠木正成の心情と重なるのであった。
 
 正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて 父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん いましはここ迄来れども とくとく帰れ故郷(ふるさ)へ
 
以来、28年余――伸一は今、静岡研修道場にあって、後継の人を残して決死の大戦に赴こうとする勇将の胸の内を、そして、わが師の思いを噛み締めていた。
彼もまた、十条潔ら新執行部に、さらには後継の若き人材たちに、これからの学会を託して、新しき世界広宣流布へと旅立つことを思うと、あの時の戸田の覚悟が強く心に迫ってくるのである。
伸一は、研修道場の白いピアノに向かった。指が鍵盤を走り、楠公の曲を奏で始めた。 
 
 父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは 未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
 
 いましをここより帰さんは わが私の為ならず 己れ討死為さんには
 世は尊氏の儘ならん 
 …………  
 
彼は心で恩師・戸田城聖に誓っていた。
正成も、父の遺志を継いだ正行も、足利方と戦い、敗れ、無念の最期を遂げましたが、私は負けません。
必ず全同志を守り抜き、世界広宣流布の新舞台を開きます!
 
*小説『新・人間革命』文中の「青葉茂れる桜井の(大楠公)」(作詞=落合直文)の歌詞は、正規には本文中のとおりですが、学会のなかでは慣習的に、「いまし」は「汝(なんじ)」、「来(きつ)れ」は「来(きた)れ」、「わが私の」は「われ私の」と歌われています。