小説「新・人間革命」 雄飛 五十一 2017年8月14日

前年十月、アメリカで教学の研鑽を呼びかけた山本伸一は、今回の訪問でも自ら率先垂範して御書を拝し、指導していった。
世界教学最高会議では、「行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(御書一三六一ページ)の御文を通して訴えた。
「『行』とは、自行化他にわたる実践であり、唱題と折伏のことです。
『学』とは教学の研鑽です。
『行学』に励む人こそが、真の日蓮大聖人の門下です。
そして、この二道の絶えざる実践がなければ、それは、もはや仏法ではないと、大聖人は仰せなんです。
このお言葉通りに実践し、さまざまな難を受けながら、広宣流布を進めてきたのは学会しかありません。
この厳たる事実は、誰人も否定することはできない。
『行学』の二道は、信心から起こる。『行学』を怠っているということは、信心を失っていることにほかならない。
信心とは、いかなる脅し、迫害、誘惑にも絶対に屈せず、不退を貫き、ひたぶるに御本尊を信受し、広宣流布に邁進していくことです。
『行』と『学』は、信心を機軸にした車の両輪といえます。
したがって、いくら知識としての教学に精通していったとしても、『行』という実践がなければ、片方の輪だけで進もうとするようなものであり、正しい信心の軌道から外れていかざるを得ない。
これまでにも実践なき偏頗な教学に陥り、われ偉しと思い、傲り高ぶって、健気に信心に励む同志から嫌われ、退転していった人もおりました。まことに残念でならない。
私たちは、いわゆる職業的仏教学者になるために教学を研鑽するのではない。
自身の信心を深め、一生成仏をめざすためであり、広宣流布推進のための教学であることを、あらためて確認しておきたいのであります」
創価教学とは実践の教学であり、自他共の幸福を創造する生命の法理の探究である。