第43回「SGIの日」記念提言下 「人権の世紀へ 民衆の大河」 人類の「生存の権利」を守る核兵器禁止条約の発効を2018年1月27日

続いて、これまで論じてきた“一人一人の生命と尊厳”の観点に基づき、地球的な課題を解決するための提案を行いたい。
第一のテーマは、核兵器の問題です。
昨年7月、核兵器禁止条約が122カ国の賛成を得て国連で採択されました。
核兵器の開発をはじめ、製造や保有、そして核兵器の使用とその威嚇にいたるまで、全面的に禁止する条約です。
かつて国際司法裁判所は、核兵器の威嚇や使用は国際法に一般的に違反するとしながらも、国家の存亡に関わるような極端な状況の場合には、合法か違法かをはっきりと結論することはできないとの勧告的意見を示しました。
この核兵器禁止条約は、そのような場合も含めて、いかなる例外も認めず、一律に禁止するものに他なりません。
先月もICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞の授賞式にあわせるような形で、禁止条約の2回目の署名式が国連で行われたように、条約の発効に向けた努力が積み重ねられています。
その一方で、核保有国や核依存国の間では“核兵器禁止条約は現実的ではない”といった声が根強くあります。
しかし過去の歴史において、核兵器を一時は保有しながらも、非核の選択に踏み切った国の事例がないわけではありません。
例えば、南アフリカ共和国はデクラーク大統領が議会演説でアパルトヘイト(人種隔離)の廃止を約束した翌年(1990年)から、核兵器の解体に着手しました。
その後、核拡散防止条約(NPT)に加盟し、96年には他の国々と共にアフリカ非核兵器地帯条約への署名を果たしたのです。
核兵器地帯の設立の先駆けとなった中南米のトラテロルコ条約も、前文で「核戦争の惨害を一掃する」との文言に続いて、「全ての人の権利の平等」に基づく恒久的平和が掲げられていたように、“非核の選択”と“人権の理念”が分かちがたく結びつく形で誕生したものでした。
国際人権法の理念は、国の違いを問わず、一人一人の生命と尊厳を守ることを求めるものであり、その追求の先には核軍拡を続ける余地など残されているはずがありません。
翻って現在、北朝鮮の核開発を巡る情勢のように、核兵器の存在があからさまな“威嚇の手段”としての様相を再び強めている状況は、国際社会の深い懸念となっています。
また近年、アメリカとロシアの間で中距離核戦力(INF)全廃条約=注4=の遵守を巡る対立がみられることも憂慮されます。
 
国際法の歴史が築いてきたもの
核抑止政策の骨格は“核兵器による威嚇”にありますが、そこにひそむ問題を突き詰めて考える時、哲学者のハンナ・アーレントが提起した「他者を圧倒する自由意志」としての主権というテーマを思い起こします(『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房)。
アーレントは、古代ギリシャにおいて自由は、他者との交わりの中で“至芸”ともいうべき輝きをもって表れる言葉や振る舞いに息づくものとして捉えられていたのに対し、それが近代以降、他者への眼差しを欠いた自己の意志に基づく「選択の自由」の意味へと変容してきたとして、こう指摘しています。
「自由の理念が、行為から力としての意志へ移動し、行為のうちに具体的に明示される状態としての自由から選択の自由へと移動した結果、それは、前述の意味での至芸であることをやめ、他者から独立し、しかも最終的には他者を圧倒する自由意志の理想、すなわち主権となった」と。
アーレントはこの考察を通し、自由と主権の関係を論じましたが、壊滅的な被害をもたらす核兵器によって安全保障を確保しようとする国家のあり方は、「他者を圧倒する自由意志」の最たるものとはいえないでしょうか。
ある意味で国際法の歴史とは、国家に対して“越えてはならない一線”を明確化し、共通規範として打ち立てていく挑戦の積み重ねでもあったといえます。
16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで続いた戦乱に胸を痛める中で、近代国際法の礎を築いたグロティウスは、『戦争と平和の法』で、敵といえども人間であることに変わりはなく、信義は守られなければならないと訴えました。
 そしてその思想は19世紀以降、戦時における禁止事項を定めた国際人道法の形成につながり、20世紀の2度に及ぶ世界大戦を経て、国連憲章で「武力による威嚇または武力の行使」が一般的に禁止されたのです。
 これまで生物兵器化学兵器をはじめ、対人地雷やクラスター爆弾が、条約によって“いかなる場合も使用が許されない兵器”として一線が引かれたことを機に、保有を望み続ける国が減少するようになりました。昨年は化学兵器禁止条約の発効20周年でしたが、締約国は192カ国に達し、化学兵器の9割が廃棄されてきたのです。
国際規範はひとたび明確に打ち立てられれば、国家のあり方のみならず、世界のあり方を方向づけていく重みがあります。
ICANのフィン事務局長も、ノーベル平和賞の授賞式で訴えていました。
「今日、化学兵器保有することを自慢する国はありません。神経剤サリンを使用することは極限的な状況下であれば許されると主張する国もありません。
敵国に対してペストやポリオをばらまく権利を公言する国もありません。これらは、国際的な規範が作られて、人々の認識が変わったからです」(NHKのウェブサイト)  
そして今、条約の採択によって、核兵器が“いかなる場合も使用が許されない兵器”として明確化されるにいたりました。
国連のグテーレス事務総長も、「グローバルな緊張が高まり、軍事力が誇示され、
核兵器の使用を巡って危険な言葉が交わされている」との強い警告を発しています。
核兵器を巡る混迷が深まっている今だからこそ、核抑止政策の是非を真摯に問い直すべきではないでしょうか。
 
冷戦時代の教訓が物語る恐怖による抑止の危険性
 
そこで私は、核兵器の使用を巡る危険な言葉の応酬がやまなかった冷戦時代の教訓を、振り返ってみたいと思います。
以前、テレビのドキュメンタリー番組で、ソ連の首脳として初めて訪米を果たしたフルシチョフ首相の様子が紹介されていました(ARTE FRANCEほか制作『フルシチョフ アメリカを行く』、NHK BS1、2017年10月18日放映)。
訪米は、ソ連大陸間弾道ミサイルICBM)の試射に続いて、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した2年後(1959年9月)のことでした。
“近いうちに核戦争をしかける人物”としてのイメージが浸透していたフルシチョフ首相は、行く先々で政治的な批判にさらされましたが、一方でアメリカ市民との触れ合いを何よりの楽しみとしていました。
意見の対立を抱えつつ、アメリカと一定の信頼関係を築いて帰国したものの、翌年、アメリカの偵察機であるU2ソ連の領空内に入り、撃墜される事件が起きました。
関係は再び悪化の一途をたどり、61年のベルリン危機に続いて、62年にはキューバ危機を招いてしまったのです。
キューバ危機は、ケネディ大統領とフルシチョフ首相がぎりぎりの所で踏みとどまったことで最悪の事態を免れましたが、ドキュメンタリー番組の最後で、当時のフルシチョフ首相の心境を推察しながら、次のように問いかけていたことが胸に残りました。
もちろん、理由はいくつかあったであろう。政治家として妥協せざるを得なかったかもしれない。それでも核戦争に踏み切らなかった理由の一つに、つかの間ではあってもアメリカ市民と触れ合った懐かしい記憶があったことを想像できないだろうか──と。
これはあくまで番組の問いかけではありますが、核攻撃によって命を失うのは大勢の民衆に他ならないという現実は、私自身、フルシチョフ氏の後任のコスイギン首相と率直に語り合った点でもあります。
コスイギン首相とお会いしたのは74年9月で、ソ連は当時、アメリカだけでなく中国とも深刻な対立関係にありました。
私は、核戦争のような事態が起きることは絶対にあってはならないとの思いで、3カ月前の訪中で目にした、ソ連の攻撃に備えて中国の人々がつくった防空壕の様子を伝えました。
 北京では防空壕に加え、中学校でも生徒たちが校庭で地下室づくりをしている姿を見て、胸が痛んでならなかったからです。
 その思いを込めつつ、中国の人々が感じている懸念を伝え、「ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と話を切り出すと、コスイギン首相は意を決したようにこう述べました。
 「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と。
 私はこの重要なメッセージを携え、再び中国を訪問しましたが、核保有国の指導者が核の脅威にさらされている大勢の民衆や子どもたちの存在に思いをはせる大切さを、強く感じずにはいられませんでした。
 
核戦争を防止するための重要な楔
一方、ソ連と対立していたアメリカでも、シミュレーションによる軍事演習で大統領が衝撃を受けていた様子が、証言で浮き彫りにされています。
──レーガン大統領が82年に参加した演習では、スクリーン上に映し出されたアメリカの地図に、ソ連からの核攻撃で壊滅した都市が赤い点で示されるようになっていた。
一分また一分と時間がたつごとに、その数は増え、「大統領がコーヒーを一口飲む前に、地図は赤い海へと変わっていった」。
レーガン大統領はその壊滅的な結末にショックを受け、マグカップをただ握りしめるしかなかった──と(デイヴィッド・E・ホフマン著『死神の報復(上)』平賀秀明訳、白水社を引用・参照)。
その体験を胸にとどめ、レーガン大統領はソ連との対話を模索し続ける中で、ゴルバチョフ書記長との首脳対談を果たし、INF全廃条約が実現をみたのであります。
 
シミュレーションでの仮想の地図では「赤い点」の増加だけで済むかもしれませんが、実際に核攻撃の応酬が始まってしまえば、どれだけ多くの尊い命が失われ、人間生活の営みが破壊されることになるのか。
SGIがICANと協力して制作した「核兵器なき世界への連帯」展で浮き彫りにしようとしたのは、まさにその点でした。
展示の冒頭では、「あなたにとって大切なものとは?」と問いかけます。
一人一人の胸に浮かぶものは違っても、核兵器はその「大切なもの」を根こそぎ奪うものに他ならないという現実と真正面から向き合うことが、核時代に終止符を打つための連帯の礎になると信じるからです。
核抑止政策がキューバ危機での双方の挑発のエスカレートをぎりぎりまで止められなかったように、“恐怖の均衡”はいつ何時、誤解や思い込みで破綻するかわからない、薄氷を踏むものでしかないことを、核保有国と核依存国の指導者は肝に銘じるべきです。
2002年にインドとパキスタンの緊張が高まった時も、両国が踏みとどまった背景にはアメリカの外交努力がありました。
仲裁に入ったアメリカのコリン・パウエル国務長官は、パキスタンの首脳に電話し、「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と自重を促しました。
その上で、「1945年8月の後、初めてこんな兵器を使う国になるつもりなのか。
もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか」と話すと、パキスタン側は説得に応じました。
また、インド側に働きかけた時も同様の反応が得られ、危機を回避することができたというのです(「朝日新聞」2013年7月10日付の記事を引用・参照)。
以上、歴史の教訓をいくつか振り返ってきましたが、核戦争を防止する上で重要な楔となってきたのは、“恐怖の均衡”による抑止というよりはむしろ、まったく別の要素であったとはいえないでしょうか。
一つは、敵対する国に対して門戸を閉ざさず、あらゆる角度から対話の道を探るなどコミュニケーション(意思疎通)の回路を確保しようとする努力であり、もう一つは、広島や長崎の惨劇を踏まえて多くの民衆の犠牲が生じることに思いをはせることにあったのではないかと、感じられてならないのです。
 
立場を超えて建設的な議論を
本年4月から5月にかけてNPT再検討会議の準備委員会が行われ、核軍縮に関する国連ハイレベル会合が5月に開催されます。
核兵器禁止条約の採択後、核保有国や核依存国も交えての初の討議の場となるものであり、「核兵器のない世界」に向けた建設的な議論が行われるよう、強く呼び掛けたい。
その場を通して、2020年のNPT再検討会議に向けて各国が果たすことのできる核軍縮努力について方針を述べるとともに、核兵器禁止条約の7項目にわたる禁止内容について、実施が今後検討できる項目を表明することが望ましいと考えます。
例えば、「移譲の禁止」や「新たな核保有につながる援助の禁止」は、NPTとの関連で核保有国の間でも同意できるはずです。
また核依存国にとっても、「核兵器の使用と威嚇の禁止」や、そうした行動につながる「援助・奨励・勧誘の禁止」が、自国の安全保障政策にどう関係してくるのかを検討することは可能だと思います。
 国際法は、条約のような“ハード・ロー”と、国連総会の決議や国際的な宣言などの“ソフト・ロー”が積み重ねられ、補完し合う中で実効性を高めてきました。
軍縮の分野でも、包括的核実験禁止条約(CTBT)において、条約に批准していない場合に個別に取り決めを設けて、国際監視制度に協力する道が開かれてきた事例があります。
核兵器禁止条約においても、署名や批准の拡大を図る努力に加えて、こうした“ハード・ロー”と“ソフト・ロー”の組み合わせのように、署名や批准が当面困難な場合であっても、宣言や声明という形を通じて各国が実施できる項目からコミットメント(約束)を積み上げていくべきではないでしょうか。
何より核兵器禁止条約は、NPTと無縁なところから生まれたものではありません。
条約採択の勢いを加速させた核兵器の非人道性に対する認識は、2010年のNPT再検討会議で核保有国や核依存国を含む締約国の総意として示されていたものに他ならず、核兵器禁止条約は、NPT第6条が定めた核軍縮義務を具体化し、その誠実な履行を図っていく意義も有しているからです。
 
広島と長崎の被爆者の思い
私が創立した戸田記念国際平和研究所では、昨年11月、協調的安全保障をテーマにした国際会議をロンドンで開催しました。
会議では、停滞が続く核軍縮を前に進めるための課題を検討するとともに、NPTと核兵器禁止条約の二つの枠組みが補完し合う点について討議しました。
また来月には東京で国際会議を行い、日本や韓国、アメリカや中国から専門家が参加し、北朝鮮情勢や北東アジアの平和と安全保障を巡って打開策を探ることになっています。
軍縮の停滞に加え、核兵器の近代化が進み、拡散防止の面でも深刻な課題を抱える今、「NPTの基盤強化」と「核兵器禁止条約による規範の明確化」という二つのアプローチの相乗効果で、核兵器による惨劇を絶対に起こさせない軌道を敷くべきではないでしょうか。
その意味で、唯一の戦争被爆国である日本が、次回のNPT再検討会議に向けて核軍縮の機運を高める旗振り役になるとともに、ハイレベル会合を機に核依存国の先頭に立つ形で、核兵器禁止条約への参加を検討する意思表明を行うことを強く望むものです。
先のパウエル氏の言葉に敷衍して言えば、“1945年8月の後、核兵器が使用されるかもしれない事態が生じた時、それを容認する国に連なることができるのか”という道義的責任から目を背けることは、被爆国として決してできないはずだからです。
禁止条約の基底には、どの国も核攻撃の対象にしてはならず、どの国も核攻撃に踏み切らせてはならないとの、広島と長崎の被爆者の切なる思いが脈打っています。
被爆者のサーロー節子さんも、「思い出したくない過去を語り続ける努力は、間違いでも無駄でもなかった」(「中国新聞」2017年11月25日付)との感慨を述べていました。
 
核廃絶の前進を求める新たな「民衆行動の10年」
 
日本は昨年、次回のNPT再検討会議に向けた第1回準備委員会で、「非人道性への認識は、核兵器のない世界に向けての全てのアプローチを下支えするもの」と強調しましたが、日本の足場は“同じ苦核廃絶の前進を求める新たな「民衆行動の10年」しみを誰にも味わわせてはならない”との被爆者の思いに置かねばならないと訴えたいのです。
 
平和・軍縮教育を市民社会で推進
核兵器禁止条約に関し、もう一つ呼び掛けたいのは、市民社会の連帯を原動力に条約の普遍性を高めていくことです。
核兵器禁止条約の意義は、一切の例外なく核兵器を禁止したことにありますが、その上で特筆すべきは、条約の実施を支える主体として国家や国際機関だけでなく、市民社会の参画を制度的に組み込んでいる点です。
条約では、2年ごとの締約国会合や6年ごとに行う検討会合に、条約に加わっていない国などと併せて、NGO(非政府組織)にもオブザーバー参加を招請するよう規定されています。
これは、世界のヒバクシャをはじめ、条約の採択に果たした市民社会の役割の大きさを踏まえたものですが、同時に、核兵器の禁止と廃絶は、すべての国々と国際機関と市民社会の参画が欠かせない“全地球的な共同作業”であることを示した証左といえましょう。
また条約の前文では、平和・軍縮教育の重要性が強調されています。
この点は、私どもSGIが、国連での交渉会議に提出した作業文書や、交渉会議における市民社会の意見表明の中で繰り返し訴えてきたものでもありました。
核兵器の使用が引き起こす壊滅的な人道上の結末に関する知識が、世代から世代へと継承され、維持されるためには、平和・軍縮教育が不可欠であり、それが禁止条約の積極的な履行を各国に促す土台ともなると考えるからです。
そこでSGIとして、核兵器禁止条約の早期発効と普遍化の促進を目指し、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の第2期を本年から新たに開始することを、ここに表明したい。
昨年までSGIは、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」のキャンペーンを進めてきました。
これは、私が2006年8月に発表した国連提言での呼び掛けを踏まえ、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」発表50周年を機に、2007年9月に開始したものです。
ICANと協力して「平和への願いをこめて──広島・長崎 女性たちの被爆体験」と題するDVD(5言語版)を制作し、証言映像で核兵器と戦争の悲惨さを訴えてきたほか、先に紹介した「核兵器なき世界への連帯」展を19カ国81都市で開催してきました。
また、2010年のNPT再検討会議に寄せて核兵器禁止条約の制定を求める227万人の署名を提出したのに続き、2014年には核兵器廃絶のキャンペーンに協力し、512万人を超える署名を集めました。
そのほか、多くの団体と連携して「核兵器廃絶のための世界青年サミット」を2015年に広島で開催するとともに、核兵器の人道的影響に関する国際会議や、国連での核兵器を巡る一連の討議と交渉会議に参加し、市民社会の声を届けてきたのであります。
このような活動を通し、核兵器の非人道性を議論の中軸に据える後押しをしながら、核兵器禁止条約の交渉を求め、「核兵器のない世界」を求める多くの民衆の思いに立脚した、いかなる例外も認めない全面禁止を定めた条約の制定を訴え続けてきました。
 
「非核」の民意を世界地図で表す
これまでの「民衆行動の10年」の最大の焦点は、核兵器禁止条約の制定にありました。
本年から開始する「民衆行動の10年」の第2期では、平和・軍縮教育の推進にさらに力を入れながら、核兵器禁止条約の普遍化を促し、禁止条約を基盤に世界のあり方を大きく変えていくこと──具体的には、禁止条約を支持するグローバルな民衆の声を結集し、核兵器廃絶のプロセスを前に進めることを目指したいと思います。
平和首長会議への加盟が162カ国・地域の7500以上の都市に達しているように、「核兵器のない世界」を求める声は、核保有国や核依存国の間でも広がっています。
またICANの活動に賛同するNGOも、世界で468団体に及んでいます。
私は、核兵器禁止条約の普遍性を高めるには、各国の条約参加の拡大を市民社会が後押しするとともに、グローバルな規模での市民社会の支持の広がりを目に見える形で示し続けることが、大きな意義を持つと考えます。
 
例えば、ICANや平和首長会議など多くの団体と協力する形で、核兵器禁止条約を支持する各国の自治体の所在地を国連のシンボルカラーである“青”の点で示した世界地図を制作したり、さまざまなNGOから寄せられた条約支持の声を集めて幅広く紹介し、国連や軍縮関連の会議の場で継続的に発信していく方法もあると思います。
また青年や女性、科学界や宗教界など、あらゆる角度から連帯の裾野を広げ、各国の条約参加を呼び掛けるとともに、条約の発効後は、非締約国に締約国会合へのオブザーバー参加を、市民社会として働きかけることも考えられましょう。
先ほど私は、冷戦時代のシミュレーション演習で仮想の地図が赤く染まっていった様子に言及しましたが、“私たち世界の民衆は、非道な核攻撃の応酬が引き起こされかねない状況を黙って甘受することはできない”とのグローバルな民意の重さを明確な形で示すことで、世界全体を非核の方向に向けていく挑戦を進めたいのです。
ICANへのノーベル平和賞の授賞式で、被爆者のサーロー節子さんは訴えました。
「私は13歳の少女だったときに、くすぶる瓦礫の中に捕らえられながら、押し続け、光に向かって動き続けました。
そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です」
「どのような障害に直面しようとも、私たちは動き続け、押し続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです」(NHKのウェブサイト)
ICANや平和首長会議が築いてきたネットワークを基盤に、市民社会の連帯をさらに広げ、核兵器廃絶を求めるグローバルな民意の大きさを可視化していく──。
その民意の重みが、やがては核保有国と核依存国の政策転換を促し、核時代に終止符を打つことにつながっていくと、私は確信してやみません。
国連が採択目指す二つの国際枠組み
次に第二のテーマとして、人権に関する具体的な提案を行いたいと思います。
まず提起したいのは、難民と移民の子どもたちを巡る状況の改善です。
国連では現在、グローバル・コンパクトと呼ばれる難民と移民に関する二つの国際枠組みの年内の採択が目指されています。
私は、このグローバル・コンパクトにおいて、すべての項目を貫く原則として人権を掲げた上で、重点課題の一つとして「子どもたちの教育機会の確保」を各国共通の誓約にすることを、強く呼び掛けたい。
現在、難民や国内避難民などの数は、世界全体で6560万人に達し、難民の半数は子どもたちが占めています。
移民の子どもたちの多くも、移民全体に対する偏見や差別の影響で厳しい状況に置かれています。
特に深刻なのは、保護者から離れて各地を移動する子どもたちの状況であり、ユニセフ(国連児童基金)が昨年発表した報告書によると、2010年以降、その数は約5倍に増加し、80カ国で約30万人に及んでいるといいます。
ユニセフの報告書の題名が「子どもは子ども」となっているように、難民や移民といった境遇の違いに関係なく、すべての子どもの権利と尊厳は等しく守らなければならないというのが、世界人権宣言と子どもの権利条約の根本理念ではないでしょうか。
2年前の「難民と移民に関する国連サミット」で合意されたニューヨーク宣言で言及されていたのも、子どもを取り巻く状況の改善の重要性でした。
宣言では、「子どもの最善の利益に常に主要な考慮を与えつつ、その地位に関わりなく、全ての難民と移民の子どもの人権と基本的自由を保護する」とうたっています。
また、具体的な政策課題として、「全ての子どもが、到着から数か月以内に教育を受けることを確実にする」との決意が記されていました(国連広報センターのウェブサイト)。
私は、これを決意に終わらせることなく、難民と移民に関する二つのグローバル・コンパクトで、教育機会の確保を各国が政策に反映することを共に約束した上で、受け入れが少ない国は、受け入れが多い国をさまざまな形で支援する体制を整えるべきではないかと訴えたいのです。
ニューヨーク宣言が強調する通り、教育の機会を得ることは、厳しい状況下にある子どもへの基本的な保護となるだけでなく、若い世代の心に「未来に対する希望」を灯すものになっていくに違いありません。
 
シリアから逃れた水泳選手の言葉
昨年、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)の親善大使に就任した、シリア出身の水泳選手ユスラ・マルディニさんは語っています(UNHCR駐日事務所のウェブサイト)。
「食べ物によって空腹が満たされ、難民が救われることはあります。しかし、人として生きぬくためには、その心が満たされなければなりません」
彼女は戦場となった母国から逃れ、トルコ経由でギリシャに海路で向かう途中、ボートが故障したため、姉と一緒に海に飛び込み、2人で泳いでボートを数時間押し続けて、同乗していた20人の命を助けました。
その後、たどり着いたドイツで水泳の練習を重ねる中、リオデジャネイロでのオリンピックに難民選手団の一員として出場を果たしたのです。現在は、ドイツで教育を受けながら、2020年の東京オリンピックへの出場を目指し、トレーニングを続けています。
マルディニさんは「難民は過酷な状況を体験した普通の人であり、チャンスさえ得られれば何かを成し遂げることができるというメッセージを今後も広めていきたい」と述べています。
その何よりのチャンスとなるのが教育であると、私は強調したいのです。
また、教育によって灯される「未来に対する希望」が、受け入れ地域の子どもたちの間にも広がり、“共生の心”を力強く育む流れへとつながっていくことを期待してやみません。
この点、ICANのフィン事務局長が語っていた言葉が胸に残りました。
「私は移民が多い地域で育ちました。7歳の時に、突然、学校にバルカン諸国の生徒が大勢入ってきたのを覚えています。全員がたいへんな経験をしていました」  
「干ばつを逃れて親がソマリアからやってきたという友だちもいました。
彼らと出会い、彼らの話を聞き、それを実際に体験した彼らの親に会ったりすることで、外国の紛争や危機が、ある意味、身近なものになったのです」(NHKのウェブサイト)