小説「新・人間革命」  勝ち鬨 七十二 2018年3月5日

佐藤幸治は、断固たる一念で、真剣に唱題を重ねた。
ある日、別の場所を掘り始めると、わずか二十六メートルほどで、奇跡のように地下水が噴出した。
水量は一分間に約二百十六リットルの水質良好の、こんこんたる水源であった。これによって、総本山境内に水道を敷設することができたのである。
佐藤は、宗門の外護に尽くし抜いてきた学会の真心を踏みにじった悪僧たちを、終生、許さなかった。
 山本伸一は、会長を辞任する三カ月前の一九七九年(昭和五十四年)一月、青森文化会館を訪れ、東北の代表と懇談した。
そのなかに佐藤と妹の哲代の姿もあ
った。佐藤は、二年前に肺癌と診断され、「余命三カ月、長くて一年」と言われていた。
伸一は、彼の手を握り締めて語った。
「信心ある限り、何ものも恐れるに足りません。一日一日を全力で生き抜くことです。
また、朝日も、やがては夕日になる。赫々たる荘厳な夕日のごとく、人生を飾ってください。
人びとを照らす太陽として、同志の胸に永遠に輝く指導を残してあげてください」
佐藤は、不死鳥のごとく立ち上がった。
率先して、学会員の家々を個人指導に歩いた。
彼の励ましに触発され、多くの同志が、破邪顕正の熱き血潮を燃え上がらせた。皆が、創価の城を断じて守り抜こうと誓い合った。
戦う人生には、美しき輝きがある。
翌年五月、佐藤は六十六歳の人生の幕を閉じた。
癌と診断されてから三年も更賜寿命の実証を示しての永眠であった。
伸一の代理として妻の峯子と息子が弔問に訪れた。
生前、伸一は、彼にステッキを贈っていた。
本人の強い希望で、棺には、モーニングに身を包み、そのステッキを手にして納まった。
「来世への広布遠征の旅立ち」との思いからであったという。
以来、一年八カ月がたとうとしていた。
黄金の夕日のごとき晩年であった。
佐藤家を訪問した伸一は、夫人の美栄子や、妹の哲代ら家族、親族と勤行し、追善の祈りを捧げた。