【第 2回】衆生所遊楽 ―― 揺るぎない大境涯の確立 (2018.3.13)

【あらすじ】
1978年(昭和53年)16日、新春本部幹部会で広布第2章の「支部制」の実施が発表される。
山本伸一会長は、114日には、東京・立川文化会館で行われた第2東京本部の婦人部勤行会に出席。
伸一は、婦人部の小単位の学習・懇談に一段と弾みをつけ、皆が歓喜の信心に励めるようにと願い、語り掛ける。
 
小説「新・人間革命」第26巻「法旗」の章
 
「われわれは、なんのために、この世に生を受けたのか――」
一瞬、場内は静まり返った。思案顔(しあんがお)の人もいれば、早く伸一の次の言葉を聞きたいと、瞳(ひとみ)を輝(かがや)かせる人もいた。
「それは、『衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)』と御書にもあるように、この人生を〝楽しむ〟ためであります。
そして、苦渋(くじゅう)の人生から、遊楽(ゆうらく)の人生へと転換していくための信心なんです」
 
ここで伸一は、遊楽へと転ずる具体的な実践が、御本尊への唱題であると結論を述べたうえで、その原理を明らかにしていった。
「御本仏の生命の当体である御本尊に、南無妙法蓮華経と題目を唱えていくならば、自身の生命が仏の大生命と境智冥合(きょうちみょうごう)していきます。
それによって、己心(こしん)に具(そな)わっている仏の生命を開いていくことができるんです。
その生命境涯が『四徳(しとく)』、すなわち『常楽我浄(じょうらくがじょう)』であると説かれています。
『常』とは、常住(じょうじゅう)であり、仏、衆生の心に具わる仏の生命は、三世永遠であることを示しています。
『楽』とは、苦しみがなく、安らかなことであり、『我』とは、何ものにも壊(こわ)されない強靭(きょうじん)な生命です。
『浄』とは、この上なく清(きよ)らかな生命をいいます」
自身の胸中に、「常楽我浄」の生命が滾々(こんこん)と湧(わ)き出ているならば、何ものをも恐(おそ)れず、何があっても、悠々(ゆうゆう)と、歓喜(かんき)にあふれた日々を送ることができる。
 
伸一は、仏法で説く「遊楽」とは、単に財産や地位、名声、技能などがあるということでもなければ、健康であるといった相対的なものでもないと述べた。
そして、それは、自らの生命の奥底から湧(わ)きいずる充実と歓喜であり、絶対的幸福境涯であると訴えた。
「皆さんは、ご主人の月給がもう少し高ければとか、もっと広い家に住みたいとか、子どもの成績がもっと良ければなど、さまざまな思いをいだいているでしょう。
その望みを叶(かな)えようと祈り、努力して、実現させていくことも大切です。
しかし、最も大事なことは、どんな大試練(だいしれん)に遭遇(そうぐう)しても、決して負(ま)けたり、挫(くじ)けたりすることのない、自身の境涯を築いていくことです。
すべての財産を失ってしまった。大病を患(わずら)ってしまった。最愛の人を亡くしてしまった
――そんな事態に遭遇(そうぐう)しても、それを乗り越え、幸福を創造していける力をもってこそ、本当の遊楽なんです。
日蓮大聖人は、いつ命を奪(うば)われるかもしれないような佐渡流罪の渦中(かちゅう)にあって、『流人(るにん)なれども喜悦(きえつ)はかりなし』(御書1360ページ)と言われている。
この大境涯の確立こそ、信心の目的なんです。
したがって、遊楽(ゆうらく)の境涯(きょうがい)には、広宣流布のために、大難にも堂々と立ち向かっていく勇猛心(ゆうみょうしん)が不可欠(ふかけつ)なんです。
勇猛心なきところには、崩(くず)れざる遊楽(ゆうらく)はありません」
最も大事なことは、どんな大試練に遭遇しても、決して負けたり、挫けたりすることのない、自身の境涯を築いていくことです。
 
理解を深めるために
 
●「楽しむために生まれてきた」
 
ここでは仏法で説かれる「衆生所遊楽」という言葉について説明します。
法華経如来寿量品(ほけきょうにょらいじゅりょうほん)第16には、「衆生(しゅじょう)の遊楽(ゆうらく)する所(ところ)なり」(法華経491ページ)とあります。「衆生」とは凡夫(ぼんぷ)、「遊楽」とは遊び楽しむことで幸福境涯を指し、「所」とは娑婆世界(現実社会)のことです。
法華経以前の爾前経(にぜんきょう)では、仏の住む世界を「浄土(じょうど)」とし、苦悩に満ちた現実世界である「穢土(えど)」とは懸(か)け離れた別世界であると説いてきました。それに対して、法華経では、仏は娑婆(しゃば)世界に常住するのであり、この娑婆世界が実は、衆生が楽しむ所であると説き明かしたのです。
 
第2代会長の戸田城聖先生は、「衆生所遊楽」の経文を通して、「人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。
苦しむために生まれてきたのではないのです」と語られていました。
池田先生も、「仏(ほとけ)の眼(まなこ)で見るならば、また衆生が胸中の『仏の境涯』を開くならば、この娑婆世界が即、衆生の遊楽する楽土となる。
いわば、この世の舞台で、私たちは『楽しく生きぬく』という人生の劇を演じているのです」と語っています。
私たちは本来、誰もが悠々と人生を“遊び楽しむ”力を持っています。幸福になるために、私たちは生まれてきました。
どんな苦難をも勝ち越えゆく力――その偉大な“生命の力”を引き出すための実践が「信心」なのです。
 
日蓮大聖人の御書から ​
 
四条金吾殿御返事」について
 
●「苦楽ともに」思い合わせた祈り
 
日蓮大聖人は、「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)」の中で、「一切衆生(いっさいしゅじょう)・南無妙法蓮華経と唱うるより外(ほか)の遊楽(ゆうらく)なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文・あに自受法楽(じゅじゅほうらく)にあらずや」(1143ページ)と仰せです。
また、同じ御書で「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽(くらく)ともに思い合せて 南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽(じゅじゅほうらく)にあらずやいよいよ強盛(ごうじょう)の信力をいたし給へ」(同ページ)とも述べられています。
 
四条金吾が、このお手紙を頂く2年前、金吾は主君(しくん)の江間氏(えまし)を折伏したことを機(き)に、主君から遠ざけられてしまいました。さらに、金吾に嫉妬(しっと)していた同僚(どうりょう)からの讒言(ざんげん)などによって、江間家の中で苦しい立場に立たされていたのです。
大聖人は、苦境のまっただ中にあった金吾に、深き信心を起こして南無妙法蓮華経と唱える以外に真の遊楽はないことを強調され、そこに法華経に説かれる「衆生所遊楽」の本当の意味があることを教えられています。
この大聖人の指導を忠実に守り、実践していった金吾は、主君からの信頼を回復し、それまでの3倍の領地を賜(たまわ)るなど、勝利の実証を示していったのです。