【第3回】弘教――永遠の幸福を開く「極善の実践」 (2018.4.17)


連載「世界宗教の仏法を学ぶ」では、池田先生の指導や励ましを教学のテーマ別に紹介。併せて、それらに関する仏法用語や日蓮大聖人の御書などを紹介します。第3回のテーマは「弘教」です。
 
小説「新・人間革命」第13巻「北斗」の章
 
今度は、壮年が指名された。
私は、仕事が忙しくて休日も取れません。でも、なんとか折伏をしたいと思っています。ところが、なかなかできないもので悩んでおります」
人を救おうとして悩むなんて、すごいことではないですか。尊く誇り高い、最高の悩みです。本当の慈悲の姿です。それ自体、地涌の菩薩の悩みであり、仏の悩みです。」
集った同志は、弘教を実らせようと、日々、懸命に戦っていた。
それだけに、折伏についての話に、皆、目を輝かせ、真剣な顔で聞き入っていた。
折伏を成し遂げる要諦は何か。それは決意です。一念が定まれば、必ず状況を開くことができる。
折伏は、どこでもできるんです。戸田先生は、牢獄のなかでも法華経の極理を悟り、看守を折伏しています。まず、折伏をさせてくださいと、御本尊に懸命に祈り抜くことです。すると、そういう人が出てきます。また、ともかく、あらゆる人と仏法の対話をしていくんです。
もちろん、信心の話をしても、すぐに入会するとは限りません。それでも、粘り強く、交流を深めながら、相手の幸福を日々祈り、対話を重ねていくことです。種を蒔き、それを大切に育て続けていけば、いつか、必ず花が咲き、果実が実ります。焦る必要はない。
さらに、入会しなくとも、ともに会合に参加して教学を勉強したり、一緒に勤行したりすることもよいでしょう。自然な広がりが大事です。
ともあれ、苦労して弘教に励んだ分は、全部、自分の福運になります。相手が信心しようが、しまいが、成仏の因を積んでいるんです。」
皆が笑顔で頷いていた。伸一の話を聞くうちに、安心感と勇気がわいてくるのである。
 
彼は、言葉をついだ。
「また、対話してきた人を入会させることができれば、何ものにもかえがたい、最高最大の喜びではないですか。折伏は、一人ひとりの人間を根本から救い、未来永遠の幸福を約束する、極善の実践です。寄付をするとか、橋を造ったとかいうような慈善事業などよりも、百千億倍も優れた、慈悲の行為なんです」
答え終わると、すぐに次の手があがり、質問は後を絶たなかった。
 
 
理解を深めるために
日蓮大聖人の仏法は「下種仏法(げしゅぶっぽう)」と言われます。「下種」とは、衆生に成仏の根源の種子である妙法を語っていくことです。
「下種」には「聞法下種(もんぽうげしゅ)」と「発心下種(ほっしんげしゅ)」があります。聞法下種とは、友人に妙法を説き聞かせること、発心下種とは、妙法を説いて友人が仏法の実践を決意(発心)することを指します。
御書には、「とにもかくにも法華経を強(し)いて説き聞かせるべきである。それを聞いて信ずる人は仏となる。謗(そし)る人は毒鼓(どっく)の縁(えん)となって仏になるのである。どちらにしても、仏の種は法華経より外にはないのである」(552ページ、通解)とあります。
第2代会長の戸田城聖先生は、「初めて会って折伏した。けれど信心しなかった。これは聞法下種である。ところが、次の人が行って折伏し、御本尊様をいただかせた。これは発心下種である。どちらも下種には変わりはない。功徳は同じである」と語られていました。
大聖人の仏法を語っていく行為は、その人の成仏への機縁(きえん)をつくっていく最も尊い行為です。聞法下種も発心下種も妙法を教えていく尊い実践であり、功徳も大きいのです。
 
日蓮大聖人の御書から「持妙法華問答抄(じみょうほっもんどうしょう)」について
 
日蓮大聖人は「持妙法華問答抄」で「須(すべから)く心を一(いつ)にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧(すすめ)んのみこそ今生人界(こんじょうにんかい)の思出(おもいで)なるべき」(御書467ページ)と仰せです。
大聖人は、この御文の直前で、法華経に説かれる「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」の文を引き、「現世は安らかであり、来世には善い所に生まれるため」の妙法であることを示されています。そして、「『現世安穏・後生善処』の妙法を持つ」(同ページ)ことが、今世の真の名誉であり、来世も揺るがぬ安楽へと生命を導く力となる、と教えられているのです。
では、「妙法を持つ」とは具体的に何を指すのか。それは、単に御本尊を〝もっている〟ということではありません。
 
第一に、「須(すべから)にして」と仰せの通り、心を一つに定め、純粋に御本尊を信じ抜くことが重要です。
第二に、自行化他(じぎょうけた)の実践が大切です。「自行」とは日々の勤行・唱題であり、「化他行(けたぎょう)」とは、他者の幸福を願い、弘教に励むことです。
自行(じぎょう)と化他行(けたぎょう)の二つは、いわば〝車の両輪〟のようなもので、〝両輪〟が伴(ともな)った自行化他の実践があってこそ、「受持」となるのです。さらに「他をも勧んのみ」と仰せのように、友に仏法を語る「下種(げしゅ)」こそが、大聖人の仏法における仏道修行の要諦(ようてい)なのです。​