【第1回】 二月闘争の源流 東京・大田 (2018.2.3)

池田先生の激励行  友のもとへ 
 
【第1回】 二月闘争の源流 東京・大田   (2018.2.3)
 
境遇も悩みも異なる一人一人の心に、勇気の灯をともす。
陰で広布を支える人を、サーチライトで照らすように探し、たたえる。
今日の世界広布は、池田大作先生のたゆみない励ましによって実現した。
本連載では、全国各地に刻まれた池田先生の激励行を追う。
 
戸田城聖先生が第2代会長に就任してから8ケ月が過ぎた1952年(昭和27年)1月。
広布遅々として進んでいなかった。
会長就任後、弘教は実っていたものの、その数は51年9月の798世帯を境に減少していた。
戸田先生は会長就任の折、「75万世帯の弘教」を宣言した。
だが、このままの勢いでは、100年が過ぎても実現できない。
「いよいよ大を出すか」
 
――戸田先生は、24歳の池田先生を蒲田支部支部幹事に任命した。
池田先生の指揮(しき)は明快(めいかい)だった。支部の活動の基軸を「組」、今でいう「ブロック」に定め、「組2世帯の弘教」を掲(かか)げると、最前線に飛び込んでいった。
支部幹部の中で、池田先生は最も若かった。
しかも、幹事という副役職。大きい会合で指導をしても真剣に耳を傾(かたむ)けない人もいる。
自らが率先(そっせん)して動き、同志と共に対話に歩いた。
月闘争を戦った婦人部幹部は、「1月末に行われた支部の出発の会合の後、池田先生に会うことはありませんでした。
最前線の会員のところに足を運ばれていたのです」と振り返る。​
 
町田セイさん(区婦人部主事)は、当時、入会3年目。戸田先生の75万世帯の願業をいったい誰がやるのだろうと考えていた。
「ただ一人、池田先生だけは本気でした。その気迫に、私も、皆も”絶対やるぞ!”と続いたのです」
日曜の早朝、池田先生の自宅を訪ね、折伏の応援をお願いすると、先生は即座に身支度(みじたく)を整え、「さあ、行きましょう」と。
他宗を信仰していた町田さんの友人に、先生は「文証」「理証」「現証」という判断基準に照らして、宗教の正邪を語った。
町田さんは「かみ砕(くだ)くように、分かりやすく仏法を語られる先生の対話に、私も引き込まれました」と述懐する。
町田さんの姿を見かけると、先生はいつも「元気を出して!」「一緒に頑張りましょう!」と明るく声を掛けた。
その励ましに、町田さんは勇気を奮(ふる)い立たせた。
これまでに約300世帯の弘教を実らせている。
こうした「一対一」の真心の励ましを、先生は蒲田支部の隅々(すみずみ)に広げた。
支部幹部だった婦人は偶然、二月闘争前後の先生の日程を目にした。
そこには、仕事の合間を縫うように、びっしりと予定が書き込まれていた。
先生は、その婦人宅にも足を運んだ。
留守番をしていた子どもに、富士山の絵を紙に描き、”将来、一緒に広布の山を登ろう”と期待を。
眼前の一人だけでなく、その家族にも、こまやかな配慮を尽くした。
一人から一人へ、”決意の連鎖”が広がっていった。
この月、蒲田は「支部」で初となる201世帯の弘教を達成した。
                       
「お邪魔します!」
1976年(昭和51年)7月16日午後8時過ぎ、大田区東糀谷(ひがしこうじや)の座談会に、池田先生が姿を現した。
参加者から歓声が上がる。
ノリ製造に携わる友や、先生が入会に導いた婦人など、顔なじみの同志も訪れていた。
腕利きの指輪職人として75歳の今も現役。
恵美子さんの膠原病(こうげんびょう)や脚(あし)の手術など度重なる苦難も信心根本に、夫婦二人で明るく乗り越えてきた。
「同志を思う先生の真心を思い出すと、今でも胸が熱くなります。報恩感謝の人生を歩み抜きます」
                           
1990年(平成2年)11月7日、池田先生は、完成して間もない大田池文化会館を初訪問。完成記念勤行会が開催された。
勤行会に参加した田村ひとみさん(総区婦人部長)。
当時、大田区の女子部書記長を務め、先生の同会館訪問の折には、役員として尽力。
誠実を尽くす師の振る舞いを、何度も目の当たりにしてきた。
完成記念勤行会での”大田から広布の人材を”との師の期待とともに、忘れられない場面の一つが、同年12月17日の、先生が出席して行われた自由勤行会である。
参加者の中には、子ども連れの婦人たちもいた。
落ち着かせようとするが、一部の子どもが騒(さわ)ぎ始めてしまった。
申し訳なさそうに、身を縮める婦人たち。
先生は、その心を察するかのように語った。
「騒ぎながら子どもは成長していきます。皆、健康で立派な指導者に成長するよう祈りました」
「お子さん方に何か差し上げたいけれども、残念ながら何もない。だから、お題目を送りました」
励ましとは、根本を包み込む慈愛から発する――そのことを、田村さんは深く心に刻んだ。
昨年、総区婦人部長に就任。その折に決定した総区婦人部のスローガンの一つに「絶対勝利の故郷城」と。田村さんは誓う。
「師恩を胸に、大田に『絶対勝利の人材城』を築いていきます」
 
大田区の学生部長だった南浩久さん(支部長)も、師の会館訪問の折、役員として、本部幹部会などの諸行事に携わった。
90年12月16日の夕方。先生が導師となり、役員の勤行会が行われた。
勤行の後、懇談が始まった。
先生は「学生部長はいる?」と尋(たず)ねた。
南さんは「はい」と返事をして立ち上がったが、緊張のあまり、表情がこわばってしまった。
先生は、「そんなに怖(こわ)い顔をしないでよ」とユーモアたっぷりに。
その場の空気が和らぐと、厳とした口調で語った。
「何があっても学会から離れてはいけない。信心を貫きなさい」
この直後、第2次宗門事件が勃発(ぼっぱつ)。
南さんは、”だから、あの時、先生は厳しく言われたんだ”と、どこまでも青年を守ろうとする師の真心を知り、広布に生き抜く人生を誓った。
宝の原点を胸に、広布の最前線を駆けてきた。
今、3月の世界青年部総会を目指し、青年の育成に全力を注いでいる。
 
90年11月7日の勤行会で、先生は語った。
「私は、学会に尽くした人のことは絶対に忘れない」
―会館が完成した日ではなく、この日を選んで、先生が大田を訪問したのは、二月闘争の折、蒲田支部支部長を務めた友の三回忌だったからである。
共に戦った同志のことを忘れない。
ここに、師の心がある。
そして、学会の温かさがある。