【第2回】草創の激闘の地 東京・文京 — 上 (2018.3.22)

支部長代理就任65周年      
“必ずこうする”と意地を出せ
 
「僕の懐刀(ふところかたな)を出そう」
65年前の1953年(昭和28年)4月初旬、戸田先生は文京支部支部長を務めていた田中都伎子さん(故人)に語った。
文京支部は伸び悩んでいた。前月の折伏成果は、トップの蒲田支部と大きな開きがあった。
同年4月20日、戸田先生の命を受け、25歳の池田先生が文京支部長代理に就任。5日後、支部班長会が開催された。
「一緒に題目を唱えましょう」
―池田先生の提案で、題目を三唱したが、皆の声が揃(そろ)わない。もう一度、やり直したが、まだ合わない。
10回ほど繰り返し、ようやく声が揃った。
池田先生は語った。
「信心は呼吸を合わせることが大事です。皆の個の力は小さいが、力を合わせれば、一人の力が5にも10にもなる」
戦いの開始に当たって、祈りを根幹(こんかん)とした団結の重要性を強調したのである。
さらに、「文京は人柄(ひとがら)がいい。
しかし、それだけではいけない」と語り、「必ずこうなるのだ、こうするのだという意地を出そう」と訴えた。
いざ戦いとなれば、勝利への執念を燃やし、力強く前進する
―その魂(たましい)を、25歳の若き広布の闘将(とうしょう)は、文京の友に打ち込んだ。
                       
前年の「二月闘争」で、池田先生は一人と会い、語り、励ますことに徹した。
文京の戦いでも、率先して友の輪の中に飛び込んだ。
支部に所属する神奈川県の相模原(さがみはら)や横須賀(よこすか)、保土ケ谷(ほどがや)、静岡県の沼津(ぬまず)、さらには長野県の松本にも足を運んだ。
先生は時を惜(お)しむように、列車の中、駅のホーム、会合の帰り道など、あらゆる機会を捉(とら)え、友の心に勇気の炎を灯(とも)し続けた。
事業が行き詰まっていた経営者に対しては、「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報(かほう)つきぬれば所従(しょじゅう)もしたがはず」(御書1192ページ)の一節を拝しつつ、人生には福運が大切であることを語り、「どこまでも信心根本に、前進しましょう」と激励した。
ある時は、青年に対して、列車を例えに、「一等車、二等車、三等車、どの列車に乗っても必ず目的地に着く。
目的地に着けばよいのだ」と語り、環境や境遇に負けず、青年らしく、朗らかに人生を歩むことを望んだ。
こうした一対一の語らいと同時に、先生は座談会に全力を注いだ。折々に、文京の友に座談会の要諦を語っている。
1.参加者が来てよかったと思う座談会 2.時代感覚を捉(とら)えた斬新(ざんしん」)な企画 3.中心者の話が一方通行にならないこと、などである。
先生は座談会に出席すると、“どうすれば幸福になれるか”“学会員はなぜ喜々として活動するのか”などを理路整然と語った。
率直な語らいを通し、慈愛(じあい)を込めて信心を勧める姿に、多くの人が入会を決めた。
 
53年8月21日、樋田敏子さん(故人)の自宅で行われた座談会に、先生が駆け付けた。
長男の修廣さん(副本部長)は当時、中学1年生。終了後、見送りに立った。
将来の決意を伝えると、先生は“ゆっくりでもいいから、地道に進んでいくんだよ”。シャツの胸ポケットにあったペンを手渡した。
「母がケガをした時も、先生はすぐお見舞いに駆け付けてくれました。こまやかな心遣いに感動しました」
 
その後、修廣さんは、3・16「広宣流布の記念式典」にも参加。社会や地域で実証を示してきた。
敏子さんの次男・隆史さん(副本部長)の妻である千佳子さん(総区婦人部総主事)は、女子部の部隊長に就いた折、文京の先輩から、部員のもとに足を運び、“皆で呼吸を合わせる”大切さを教わった。
84年(同59年)、文京区の区婦人部長に就任。直後、先生は「会員に尽くしていくんだよ」と励ましを送った。
その原点を胸に、一人一人と誠実な語らいを重ねてきた。
広布に尽くした祖母と母の思いを継ぎ、4人の子も後継の道を歩む。
樋田宅は、現在も広布の会場として、文京の前進を支えている。
                     
池田先生が支部長代理として指揮を執り始めてから、3カ月後の7月。文京は140世帯の拡大を達成。
8月には188世帯、9月には175世帯と、「壁」を破り始めた。
それでも、時には思うように弘教が進まないこともあった。焦る支部のリーダーに池田先生は語った。
「皆、よくやっているじゃないか。毎日、真剣に動いているじゃないか。
いい支部なんだ、みんな戦っているんだ、という視点から、支部全体を見直してみてごらん」
リーダーは、はっとした。あの地区はもう一歩、この地区もまだまだ――そう思っていた。
だが、違った。先生の激励を受け、行き詰まっていたのは、自身の一念であることに気付いた。
こうした「一念の変革」のドラマが、支部の隅々(すみずみ)で展開された。
 
53年11月1日、戸田先生が出席して、文京支部の第2回総会が開催された。
その模様を本紙は、「破竹の勢い文京支部総会――前進、前進の合言葉で」との見出しで報道している。
短期間で、見違えるように元気になった文京の友。戸田先生は、池田先生に語った。
「大作、すごいじゃないか。文京は大発展した。すごい力になった」
その後も、破竹(はちく)の前進は続いた。
54年(同29年)7月、文京の集いに60人ほどの新来者が集まった。
急きょ、予定していた内容を変更。池田先生が担当し、新来者に仏法の偉大さを語った。
40人以上の人が入会を決めた。
ある班では1カ月に42世帯の弘教を実らせた。
意気揚々(いきようよう)と会合に集う班のリーダー。
だが、先生はたたえるどころか、声も掛けてくれない。彼は不満を抱えつつ帰った。
数日後、池田先生が彼のことを「よく頑張ってくれている」とほめていたことを、支部幹部から聞かされた。
その時、リーダーは、慢心(まんしん)に陥っていた自分自身に気付いた。
猛省(もうせい)し、決意新たに戦いを開始した。
                     
池田先生が支部長代理に就いた時、文京支部は約700世帯。7年後、先生が第3代会長に就任する頃には、約7万世帯と100倍の発展を遂げた。
会長就任直前の60年(同35年)4月、文京は「日本一」の拡大を成し遂げた。
広布の実証で、師の会長就任を祝賀したのである。
この月、先生は田中支部長宅へ。当時、小学生だった長女の高木博子さん(区婦人部議長)も、その場にいた。
「“池田先生が会長になられる”と、集まった方々の喜びでいっぱいだったことを覚えています」
 
父・正一さん(故人)、母・都伎子さんの信心を受け継いだ。
現在、地元町会で防火防災部長、会計として尽力。水泳のサークル活動を通して、友好の輪を広げる。
2人の娘も、広布の人材に成長している。
母が晩年に語った言葉を、高木さんは心に刻(きざ)む。
「先生が支部長代理になるまでは、“数”に追われる日々だった。
先生が広布に生き抜く喜び、師弟の偉大さを教えてくださった」
支部には頑固(がんこ)な人、個性の強い人もいたけれど、先生が皆のいいところを引き出してくださったのよ」
都伎子さんは亡くなる数年前、文京の青年部に、池田先生が語った言葉を伝えている。
「私と口をきいたこともないし、会ったこともない。
そういう人の中に、本当に学会を守って、頑張ってくれている人がいるんだ。
そういう人の信心が、私は本物だと思っている」