【第3回】草創の激闘の地 東京・文京 下(2018.4.5)


 
我らの歴史 誓いあり
 
拡大の要諦
  ①信心の団結
  ②主体者の自覚
  ③人材育成
 
「私は、どこの支部も、どこの同志も、幸福であって貰いたいのだ。
潑剌と、団結して、学会を、日本の、世界の、学会にすることを夢みているのだ」
65年前の1953年(昭和28年)1月、池田先生が日記につづった一節。
この時すでに、世界広布を胸に抱いていたのである。
日記を記した3ケ月後、先生は文京支部長代理に就任した。
同志の幸福と広布の前進を願い、最前線を駆け巡った。
先生が第3代会長に就任した60年(同35年)5月3日、大きく発展を遂げた文京支部は、三つの支部に分割。
 
文京の拡大の要諦を、先生は3点にわたって述べている。
1点目は、「『祈り』を根本とする団結」である。
一方的に話し続けるくせのあるメンバーに、先生は語った。
「相手が『実は……』と言い出したら本物です。
それを言い出さないうちは、信用されていない証拠です」
仏法対話や訪問・激励において、じっくり相手の話を聞き、心を通わせていくことを訴えた。
 
2点目は、「一人一人が、主体者の自覚で立ち上がること」。
「開目抄」「如説修行抄」「諸法実相抄」など、先生は数々の御書を繙き、友の勇気を鼓舞した。
ある時の班長会では、「日蓮一生の間に祈請(きしょう)並(なら)びに所願(しょがん)忽(たちま)ちに成就(じょうじゅ)せしむるか、将又(はたまた)五五百歳の仏記(ぶっき)宛(あた)かも符契(ふけい)の如し」(御書1284ページ)の一節を拝し、力説した。
広宣流布は必ずできるという確信を持とう。皆さんの願いが叶わないわけはない。幸せになれる。自分もそれを信じ、他人にも教えてあげてください。それが折伏です」
御書根本の励ましによって、多くの友が地涌の菩薩としての使命を自覚し、広布の陣列に加わった。
 
3点目は、「人材育成」である。
ある日、一人の男子部員が支部の打ち合わせ場所に、資料を届けにきた。
先生は、男子部員の名前を聞くと、「歩いてきたの? ご苦労さま、気をつけて帰ってね」と声を掛け、深々と頭を下げた。
先生は心から青年を大切にした。「青年部をわが子と思いなさい」――壮年・婦人に事あるごとに、そう繰り返し た。
 
会長就任後も、先生は折々に、文京の友に励ましを送り続けた。
なかでも、72年(同47年)11月12日、学会本部での記念撮影は、多くの同志の心に刻まれる。「文京の日」の淵源である。
撮影の合間、先生は年配の友に声を掛けたり、壮年と車座になって懇談したりした。
さらに、参加者と勤行・唱題を行い、”将来、海外の同志の激励に行けるような境涯に”と呼び掛け、悠々と本格的な信心を貫いていくよう望んだ。
 
佐原勝助さん(副区長、地区部長兼任)は、撮影に集った一人。
勤行を終えた後、先生は「御本尊に皆さまの健康、一家のご繁栄を心から祈念しました」と。この言葉に、佐原さんは、師の「会員第一」の真心を感じ、感動で胸が熱くなった。
「撮影に参加して、”学会、先生と共に前進する限り、自身の人生は盤石である”と確信することができまshぎた」
中学卒業後、秋田県から上京し、宝飾品の修理・加工店で働き始めた。
職人として腕を磨き、87年(同62年)に独立。文京区内に店を構えた。
経営は順調だった。
ところが、99年(平成11年)ごろから不景気の影響を受け、仕事は激減。店をたたむかどうかの瀬戸際まで追い込まれた。
必死に祈り続ける日々。
転機が訪れたのは、2001年(同13年)。「カメオ」と呼ばれる装飾品のフレーム作りの依頼が来た。
初めての挑戦だったが、依頼主が佐原さんの作ったフレームを高く評価。受注を勝ち取り、業績はV字回復を遂げた。
学会活動にも全力を注ぎ、今年2月には弘教を実らせた。
自身の人生は盤石――その確信のまま、佐原さんは生涯、師と共に広布の人生を歩むことを誓う。
 
 生命豊かに 幸の日々
  我らの歴史 誓いあり
 
文京区歌「誉の故郷」が生まれたのは、1984年(昭和59年)1月18日。
文京の青年部が作成した歌詞に、先生が筆を入れ、完成した歌である。
翌19日の本紙で、区歌の誕生が報道され、文化祭の開催も発表された。
同年9月16日に行われた第2回「文京大文化祭」は、約3,000人の友が出演。
冒頭を飾ったのは、壮年・婦人・女子部のメンバーによる「誉の故郷」の合唱だった。
その後、未来部のリズムダンスや女子部の創作バレエ、男子部の組み体操などが披露された。
グランドフィナーレでは、全出演者が新たな前進の誓いを込め、「誉の故郷」を高らかに歌い上げた。
文化祭に出席した先生は、青年時代に鍛錬を重ね、自身を磨き抜いていくことが、社会に貢献し、幸福な人生を築く基本の力になると語った。
 
佐古陽子さん(婦人部副本部長)は、運営役員を務めた。文化祭の最中は運営本部で、その成功を胸中で祈り続けた。
文化祭終了後、先生は控室へ。
その途中、佐古さんら役員の姿を見掛けると、「ご苦労さま」と温かく声を掛け、その場にいた一人一人をねぎらった。
「”陰の人”を大切にされる師の心を知った瞬間でした」
2009年(平成21年)、佐古さんに子宮頸がんが見つかった。ステージ4の末期だった。
抗がん剤の一滴一滴が、がん細胞を消滅させるように、と題目を唱えた。
時には不安に駆られたが、闘病を開始した直後の本部幹部会での先生のスピーチに、心の底から勇気が湧いた。
「病気には深い意味がある。信心を試されているのである。ゆえに、諸天善神が護らないわけがない」
佐古さんの力強い祈りに呼応するように、抗がん剤治療が功を奏し、症状は劇的に改善。
1年後、再発したものの、再び乗り越え、完解を勝ち取った。
報恩感謝を胸に、地域活動にも率先。希望の連帯を広げている。
 
 
12月21日は「文京青年部の日」である。
1991年(平成3年)のこの日、豊島・文京・台東区の文化音楽祭が開催された。
前月、学会は邪宗門と決別し、”魂の独立”を果たした。
学会が新たな飛翔を開始した直後に、同音楽祭は行われたのである。
先生は「大悪をこれば大善きたる」「迦葉尊者(かしょうそんじゃ)にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗(しゃりほつ)にあらねども・立ってをどりぬべし」(御書1300ページ)を拝読。「大悪」をも「大善」に転じてきた学会の信心の力を訴え、世界広布の大舞台に勇んで舞い、
躍り出てほしいと望んだ。
 
 
少年少女部の文京王子合唱団(当時)に所属していた森内義昭さん(区男子部書記長)は、音楽祭に出演。
一寸法師」「桃太郎」を元気いっぱいに歌った。
「この時、先生との出会いを結んだことは、生涯の思い出です」
中学卒業後、創価高校へ。入学式から8日後、記念撮影会が行われた。
創立者の池田先生は、「21世紀は語学と哲学の時代」と強調。
この指針を胸に、森内さんは創価大学進学後も、英語の習得に力を注いだ。
現在、大手物流企業に勤務。
本社が香港にあるため、日常の業務で英語を使うことが多い。
仕事をしながら、さらに語学に磨きをかけ、TOEIC(英語能力試験)のスコアでは、965点(990点満点)を取った。
多忙の合間を縫って、総本部創価班として、対話拡大にも率先する。
長女・秀美さんは今、文京王子王女合唱団の一員。次女・清美さんも入団の予定だ。父が歩んだ道を、2人の娘も進んでいる。
 
文京文化会館には、区歌「誉の故郷」の歌碑がある。池田先生は由来文に、こうつづっている。
「おお わが文京に脈打つ『前進の勇気』『異体同心の団結』そして『師弟不二の負けじ魂』は未来永遠に不滅なり」
師の足跡が幾重にも刻まれる「誉の故郷」。その魂は、世代を超えて、友の胸に輝き続けていく