【第4回】 音楽隊  ​(2018.5.19)

平和と文化の大英雄たれ
 
〽誓いの青年よ 出発は今 広布の大願 いざや果たさん……
日本中、世界中で歌われている学会歌「誓いの青年よ」。発表されたのは、2014年(平成26年)4月、「5・3」を祝賀する本部幹部会の席上である
作曲は音楽隊有志。音楽隊に作曲を提案したのは、「山本伸一」のペンネームで作詞した池田先生である。
音楽隊の友にとって、「誓いの青年よ」の作曲に携わったことは、永遠に忘れ得ぬ黄金の歴史となった。
                   
音楽隊が結成されたのは、1954年(昭和29年)5月6日。池田先生の発案である。
出発は11人。「音楽隊の日」の淵源(えんげん)となった同年5月9日の初出動では、戦時中に出征兵士を送るのに使われた中古品の楽器を借りた
先生は自ら資金を工面して、楽器を贈った。
当時、先生は音楽隊に一つの提案をした。タイケ作曲の行進曲「旧友」の演奏である。
だが、結成時の人数では、演奏の編成を組むことができなかった。
音楽隊が初めて「旧友」を演奏したのは、56年(同31年)3月27日、東京都内で行われた練習会。じっと聞いていた先生は語った。
「うまくなった。もっともっと音楽隊を大きくしよう!」
57年(同32年)、北海道音楽隊、関西音楽隊が誕生。翌年には、九州音楽隊が結成された。
 
九州音楽隊の第2代隊長を務めた種田篤郎(たねだあつお)さん(総福岡・門司共戦区、副区長)。
60年(同35年)に入会し、男子部部隊長としても奮闘(ふんとう)した。
今から48年前、思わぬ苦境に直面する。
妻が多額の借金をつくり、家を出て行った。
幼子2人を抱え、早朝からゴミ収集のトラックを走らせ、夜はトランペッターとして生計を立てた。
そんな生活に限界を感じ、“人生を終わりにしよう”と思い詰めたのも一度や二度ではない。
転機となったのが、73年(同48年)3月21日、北九州市内で行われた第1回九州青年部総会。
種田さんの苦境の報告を聞いていた池田先生は、登壇前に種田さんを控室に招いた。
「よく来たね」。先生は2人掛けのソファに種田さんと座り、左手で肩を抱きながら近況を尋ねた。
「世間の人はいろいろ言うかもしれない。
しかし、君と私との間には関係ない。男がいったん踏み込んだ広布の道だ。老い枯れるまで頑張っていこう」
そして、「最後の学会歌の指揮は、君が執(と)るんだろう?」。
指揮は既に九州音楽隊の後任に譲(ゆず)っていた。だが、その瞬間、種田さんは腹を決めた。
「はい! 執らせていただきます!」
先生は深々とうなずき、「じゃあ、最後の学会歌は2人でやろう」と。
総会の会場に戻った種田さん。その表情を見た後任の指揮者は、タクトを種田さんに手渡した。
扇子(せんす)を手に、舞うように指揮する池田先生。
種田さんは一心不乱(いっしんふらん)にタクトを振った。
“生涯、先生と共に広布に生きる”との誓いがあふれた。
 
ある時、先生は種田さんにつづり贈っている。
「僕も辛(つら)いことが多い。君も辛いことがあるだろう。
しかし、仏法は勝負だ。しかし、仏法は師子王(ししおう)だ。 
故に、学会という広布の旅路を共に再び進もうよ。
―あの日、あの時の君の指揮を僕は決して忘れまい。
君も僕の舞いを忘れないでくれたまえ」
 
毎年、この3月21日を目指し、種田さんは苦闘に挑んだ。
原点の日を迎えるたび、この日に着た背広に袖を通し、決意を深めた。
7年をかけて全ての借金を返済し、新たな家庭を築くことができた。
種田さんは音楽の喜びを伝えたいと、民音主催の市民コンサートに約450回出演。
北九州市から5度、感謝状が贈られた。
その後もジャズバンドを結成し、定期的にライブ活動を続けている。
2013年(平成25年)、ステージ4の膀胱(ぼうこう)がんで余命4カ月の宣告を受けた。
しかし、治療が功を奏し、病は影を潜めた。
その中で心筋梗塞(しんきんこうそく)、脳梗塞(のうこうそく)も早期発見でき、適切な治療を受けることができた。
83歳の今も現役トランペッターとして舞台に立つ。いくつもの荒波を勝ち越えた師子の響きが、勇気の共鳴を広げている。
                    
1974年(昭和49年)11月17日、中部音楽隊・鼓笛隊の友は、名古屋市内でパレードを行う予定だった。
だが、雨がやまず、中止になった。
待機場所の中学校体育館で悔(くや)しさを募らせるメンバー。この日、愛知県体育館で本部総会が開催されることになっていた。
総会前の時間を割いて、その場に先生が激励に駆け付けた。
先生は、「きょうの雨ということも意味がある。偉大な力を発揮して仕事をする人は、段階を経ていく必要がある」と強調。
続けて、「この日を楽しみにしていた大勢の市民を代表して、私が皆さんの演奏を聞きたいと思います」と。
さらに、本部総会への参加も提案。
場内は大歓声に包まれた。
学会歌「新世紀の歌」の演奏が始まると、先生は音楽隊・鼓笛隊の隊列の中へ。メンバーと握手し、励ましを送った。
米澤富男(よねざわとみお)さん(岐阜総県・中道圏、副圏長)は、この時の出会いが原点だ。
幼少の頃、父が事業に失敗し、福岡から岐阜(ぎふ)に引っ越した。周囲から蔑(さげす)まされ、劣等感(れっとうかん)に苛(さいな)まれた。
その中で励ましてくれた男子部の先輩が、音楽隊員だった。
寸暇(すんか)を惜(お)しんで励ましを送る師の姿に、米澤さんは“社会で実証を示す人材に”と決意。その誓いのままの人生を歩んできた。
中学卒業後からプラスチック加工の工場で働き始めた。30代の時に独立。
経営は順調だったが、バブル経済の崩壊とともに、仕事が激減した。
妻・たつ子さん(同、圏婦人部総合長)と共に祈る中、長男が勤務していた焼き肉店から話があり、チェーン店をオープン。
5年で負債(ふさい)を返済した。
その後、“次の道へ進もう”と海鮮の飲食店を始めた。連日、多くの客が訪れる繁盛ぶりだ。
岐阜音楽隊の副隊長として岐阜中を駆け回ってきた。
音楽隊での薫陶(くんとう)が、人間としての基礎を築いてくれた――報恩を胸に、米澤さんは、さらなる勝利の実証を誓う。
                      
1997年(平成9年)5月19日、関西戸田記念講堂で開催された本部幹部会。
席上、関西吹奏楽団がアメリカのマーチ「錨(いかり)を上げて」、関西の歌「常勝の空」を演奏した。
スピーチを終えた池田先生は、指揮棒を振る仕草をしながら、「きょう、指揮を執ってくれたのは?」と同楽団に問い掛けた。
指揮者は、伊勢敏之(いせとしゆき)さん(総大阪・大東池田圏、壮年部員)。
前日のリハーサルでは演奏の呼吸が合わず、周囲から「そんな指揮では、『常勝の空』に魂が入らない」と檄が飛んだ。
もともとトロンボーン奏者。指揮者に就任後、この時が初めての指揮だった。
不安な気持ちを先輩にぶつけると、「誠心誠意の演奏は、必ず人の心に届く。
思い切りやろう」と。その言葉に勇気を奮い起こし、幹部会に臨んだ。
先生は、伊勢さんと前川洋一楽団長(当時)を壇上に招き、「文化褒章第1号、おめでとう」と、学会で制定されたばかりの同章を2人に授与した。
さらに、「もっと世界に舞台をたくさんつくってあげたいんだ。その時は必ずよろしく。くれぐれも頼んだよ」と語り、「日本一、いや世界一だ」と同楽団をたたえた。
 
翌年5月に同講堂で行われた本部幹部会では、同楽団の演奏で、先生が学会歌「威風堂々の歌」の指揮を。
伊勢さんはタクトを振りながら、師と心を合わせることの大切さを命に刻んだ。
大学卒業後、トロンボーン奏者として活動していたが、97年の本部幹部会後からは、吹奏楽指導者、指揮者としての仕事の依頼が増えた。
今、関西大学応援団吹奏楽部の音楽監督大阪音楽大学の特任准教授を務める。
多忙な中、後輩から請われて、関西吹奏楽団で指揮を執り続けている。
同楽団は80年(昭和55年)、第1次宗門事件の嵐の中、音楽隊として初となる全国大会の金賞を受賞。これまで17回、金賞に輝いている。
創価の正義を宣揚する指揮者に――伊勢さんの心には、師への誓願が赤々と燃えている。
                     
音楽隊は今、世界の30カ国以上に誕生している。妙音の調べが、地球を包む時代を迎えた。
先生は音楽隊へ万感の期待を込め、呼び掛ける。
「誓いの青年よ! 最も信頼する創価の楽雄たちよ!」
「透徹(とうてつ)した信心と広布への大情熱で、世界をリードし、世紀をリードし続ける、平和と文化の大英雄であれ!」
世界広布の力強い前進は、創価文化の旗手・音楽隊が奏でる師弟の凱歌と共に続いていく。