〈歌声高く 誕生40周年の学会歌〉

〈歌声高く 誕生40周年の学会歌〉
1 広布に走れ          (2018.6.23)
2  友よ起て                  (2 018.6..30)
3  星は光りて              2018.7.1
4  人生の旅                  (2018.7.17)
5  常勝の空                  (2018.7.1)
6  この道の歌                (2018.7.21)
7  地涌の讃歌                (2018.7.23)
8  我等の天地                (2018.7.25)
9  旭日遙かに/広布の旗      (2018.7.26)
10 火の国の歌                (2018.7.30)
11 ああ感激の同志あり        (2018.8.1)
12 正義の走者                (2018.8.4)
13 青葉の誓い           (2018.8.8)
14 ああ誓願の歌              (2018.8.16)
15 ああ陽は昇る/静岡健児の歌  (2018.8.21)
16 信濃の歌/雪山の道    (2018.8.25)
17 三代城の歌(ああ共戦の歌)   (2018.8.27)
18 凱歌の人生/誓いの友/広布の鐘   (2018.9.3)
19 青春桜                     (2018.9.16)
20 母の曲                     (2018.9.21)
 
 
 
                     
1 広布に走れ     (2018.6.23)
 
「我と我が友よ」と心一つに
1978年6月30日、学生部結成21周年記念の幹部会で、池田先生が“世紀の勇者”たる創価の英才たちに万感の期待を寄せる。
この日、学生部歌「広布に走れ」が電撃的に発表された(東京・荒川文化会館で)
広布の前進には、歌がある。歌うたび、金の思い出がよみがえり、未来への限りない希望を湧き立たせる歌が、同志の胸に響いている。
連載「歌声高く」では、本年、誕生40周年を迎える学会歌を紹介する。
若人たちがスクラムを組み、右に左に、大きく揺れた。清新な歌声を響かせながら。
 
  広き曠野に
  我等は立てり
  万里めざして
  白馬も堂々……
  
今月2日、千葉で行われた本部幹部会。男女学生部の代表が歌い上げたのは、「広布に走れ」であった。それに和する会場の壮年・婦人たちの声も、次第に力強さを増していく。
40年前に「学生部歌」として誕生して以来、学生部のみならず学会の全同志に愛唱されてきた。
「永遠に歌い継がれる歌を」との思いで、歌詞を幾も推敲し、自ら作曲まで手掛けた池田先生の魂が、凝縮した一曲である。
先のスクラムと合唱は、「広布に走れ」が発表された40年前の光景とそのまま重なる。
1978年(昭和53年)6月30日、東京・荒川文化会館で行われた学生部結成21周年記念幹部会で、「新学生部歌」誕生の喜びに湧く創価の学徒が肩を組み、声の限りに合唱したのだ。
  
   我と我が友よ
  広布に走れ……
  
――当時のある学生部リーダーは、こう振り返る。
「『我と我が友よ』との一節に胸が震えました。その場にいた誰もが同じ感動と決意を分かち合い、心を一つにしたのです。
池田先生から『私と君よ!』と呼び掛けていただいた。師は走る。ならば弟子も、力の限り広布に走ろう!と」
第1次宗門事件の渦中である。重苦しい空気が学会を包む中、それを決然と吹き飛ばす熱と力が、ほとばしった。
「広布に走れ」の合唱が轟きわたること、実に12回。
「歴史を創るは この船たしか」と、創価の師弟の大船は、嵐の海へ敢然と船出したのだ。
なぜこの時、池田先生は歌を作ったのか――その真情が小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章に、つづられている。
「大事なことは、どんな事態になろうとも、広布の使命に生き抜く本当の師子を育てることだ。
そのために、皆の心を鼓舞できる魂の歌を作りたいんだ」
今、6・30「学生部結成記念日」を目指し、全国のあの地この地で創価の英才たちが躍動している。
「知勇の師子よ、福智の乙女よ、使命の舞台で広布に走れ!」との師の心を胸に、誓いの歌声も高く。
 
MEMO
1978年(昭和53年)6月30日、学生部結成21周年を記念した学生部幹部会の席上、新学生部歌として発表された。 この結成記念日に際して、学生部有志が新学生部歌を作ろうと汗を流していることを知った池田先生は、「後継を託す諸君 のために後世に残る学生部歌を作ってあげよう」と、自ら作詞、作曲した。
 
 
2 友よ起て              (2018.6.30)
 
青年とはロマンに生き抜く人
 
今年も「師弟の月」「青年の月」7月が巡り来る。
7月3日――それは、1945年(昭和20年)、軍部政府による弾圧と戦った戸田先生が、2年間にわたる獄中闘争の末に出獄した日である。
また57年(同32年)、池田先生が選挙違反という無実の罪で不当逮捕ほ・勾留された日でもある。
7月6日――43年(同18年)のこの日、牧口先生は静岡の下田で、戸田先生は東京の白金台で、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕された。
 
今年で75年となる。
「7・3」と「7・6」は、学会にとって、権力の魔性と戦い、民衆勝利の時代を開く“誓いの日”。池田先生作詞・作曲の男子部歌「友よ起たて」の歌詞と楽譜が聖教新聞に掲載されたのは40年前、78年(同53年)の7月3日付と7月6日付の2回であった。
先生は男子部に「新しい飛躍の歌を贈りたい」と、あえて7月3日に発表することを選び、寸暇を惜しんで制作を進めたのだ。
前日の2日夕、先生は、こう語っている。「一つの歌をつくるにも生命を通わせなくてはいけない。
生命でつくったもののみが、生命に入っていく「何事によらず“労作業”でなければ、人々の心を打つものはできないものだ」と。
この言葉の通り、先生は一度出来上がった男子部歌にもう一度、命を吹き込こむ思いで、曲に手を加くわえた。
創価の初代、2代、3代の会長は、いかなる吹雪にも烈風にも、敢然と胸を張はり、一人立った。
後継の弟子であるならば、師子の男子部であるならば、一人立て! 友よ起て!――と、心で祈いのり叫さけびながら。
こうして「7・6」に再びの発表となったのである。
歌声は瞬く間に全国へ広がった。
「青年とは、広布のロマンに生き抜く人だ」(小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章)との師の期待を胸に抱いだき、男子部結成の月・7月を駆かける丈夫ますらおたちの力走とともに。
そして「友よ起て」の発表から3年余。嵐あらしに揺がぬ学会精神は、第1次宗門事件からの反転攻勢の中で、新たな歌を生み出した。
81年(同56年)11月、四国で産声を上げた「紅の歌」である。四国男子部の心意気きを受け止めて、先生が歌詞を書き上げた一曲だ。
先生が嵐の中で男子部に託した闘魂は今、世代から世代へ受け継つがれる。
 
MEMO
小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章には、日本の青年層が無気力・無関心に陥ってしまっていた当時の社会状況とともに、先生が“創価の青年よ。次代建設のリーダーたれ!”との願いを込めて「友よ起て」をつくった真情がつづられている。
 
3 星は光りて            2018.7.1
 
心美うつくしき姿は白蓮華のように
蓮はすは夏の朝に咲さく。
さわやかな香かおりを放ちながら水辺を優雅に彩るその花に、つかの間の涼を求もとめる人は少なくない。
紅、黄、紫と、さまざまな色がある中で「白蓮華」は、仏典において“太陽”や“光明”を象徴し、法華経では“仏”のシンボルとして描えがかれる。
1966年(昭和41年)7月、諸行事の運営や清掃等に自発的に取り組んでいた女子部のメンバーを、池田先生が「白蓮グループ」と名付けたのも、“泥沼の中にあっても華麗な花を咲かせる白蓮華のごとく、清らかな信心を”との願いからだった。命名が発表された7月8日は「白蓮グループの日」である。
12年後の78年(同53年)7月3日、東京・立川文化会館。池田先生のもとに、女子部の代表が集った。
白蓮グループの日を目指し、新しい歌をつくろうと有志が1カ月かけて書いた歌詞に、先生はじっくりと目を通す。そして語った。
「心配しなくていい、全部やってあげるから」
白蓮グループは“学会の宝”である。清らかで、ひたむきな友を守り、たたえ励ましたい――それが先生の真情だった。
先生の口述が始まった。1番から3番の歌詞まで、一気呵成に詠み上げる。
さらに曲も「例えば、こんな感じで……」とメロディーを口ずさんでいく。
その場に居合わせた友は「ほんの数分間の出来事ごとだったと記憶しています。
女子部に対する先生のご慈愛の深さ、大きさに圧倒あっとうされました」と振り返る。
歌のタイトルは「星は光りて」。7月5日付の聖教新聞でその完成が報じられると、全国の友の喜びは爆発。
翌6日付には、歌詞と楽譜が掲載された。
7月8日、東京・荒川文化会館で行われた白蓮グループの総会に始まり、全国各地で、清新な歌声が響きわたった。
宗門の黒い策謀が、尊き仏子の心を悩ませていた渦中である。
「星は光りて」を歌うたび、白蓮の友は、“りりしき姿とさわやかな声で、「疲れたる友」を励ましていってほしい”との師の思いに触ふれた。
そして、自らの使命をかみ締しめ、さらなる成長を誓ったのだ。
その後、「星は光りて」は、世界広布の伸展とともに、日本だけでなく、海外の友にも愛あい唱しょうされていく。
毎年迎むかえる7月は、世界の“白蓮姉妹”にとってグループの原点に立ち返る月であり、新たな誓願に立ち上がる月にほかならない。
「人のため世界のために 祈り動く心美くしき姿は 『蓮華の水に在あるが如ごとし』」との師の指針を、胸に深く刻きざみながら――。
 
MEMO
「白蓮グループ」命名の淵源は小説『新・人間革命』第24巻「厳護」の章に、「星は光りて」の誕生の経緯は、第28巻「広宣譜」の章に描かれている。
 
4 人生の旅          (2018.7.17)
 
「いかなる困難も、自らの使命に信念をもつ人びとを挫折させることはできない」(マハトマ・ガンジー
現実社会の厳しき試練の荒波を、不退の信心で耐え忍び、勝ち越こえ、広布の使命を敢然と果たしゆく師子王こそ我ら壮年部である。
待望の新壮年部歌「人生の旅」の完成が報じられたのは、1978年(昭和53年)7月7日付の聖教新聞
8月24日の「壮年部の日」を目指して進む友の奮闘を祈り、池田先生が自ら作詞・作曲したものである。
同歌が誕生した7月6日、池田先生は山梨の大月会館(当時)を初訪問。
県の代表との懇談会に出席した先生は、席上、新壮年部歌をいち早く全国の丈夫たちに届けたいと、録音テープの音源を披露し、同席した友と完成の喜びを分かち合った。
広布のロマンが詩情豊かに表現された同歌は、感激とともに各地の壮年部に伝えられた。会合に担当幹部が録音テープを持参さんしたり、有志が歌か詞を大きく清書したりしながら、皆で師の心を噛み締しめ、歌詞とメロディーを覚えていった。
「歌っていると、苦難の幾山河を越こえて、悠々たる境涯へと心が広がるようです」「この歌を口ずさみ、これからも壮年部が、家族も、同志も、ぐいぐいリードしていきます」との声が寄せられるなど、対話の現場で力走する壮年勇者への、強い追い風となった。
池田先生はつづっている。
「壮年が、率先垂範で広宣流布を推進していってこそ、学会の重厚な力が発揮され、社会に深く根差した運動を展開していくことができる」
大聖人の御在世当時も、富木常忍や大田乗明、曾谷教信らの壮年信徒が、門下の中心的な立場となって、地域広布を担ってきた。
「命限り有り惜しむ可からず遂に願う可きは仏国也なり」(955ページ)、「一生空しく過ごして万歳悔こと勿かれ」(970ページ)との御聖訓は、富木常忍に与えられた御書の一節である。
限りある人生を悔いなく妙法流布にささげ、友の幸福と地域社会の繁栄に尽くし切っていく中に、最高に充実した生き方があり、誉まれ高き人生がある。
「人生の旅」と同じく7月に詩が誕生した壮年部の愛唱歌がある。
「滝の詩」だ
71年(昭和46年)6月14日、青森・奥入瀬渓流を訪れた池田先生は、清冽なる滝の風景に思いを寄せて一詩を詠よみ、7月4日に発表。
この詩に青森出身の芸術部員が曲を付け、地元同志によって歌い継つがれてきた。
時は流れて2007年5月、青森の壮年部有志が歌った「滝の詩」の音声を聴いた池田先生は、「とても良い歌だ」と賛嘆さんたんし、直後の本部幹部会で、音楽隊の合唱団が歌った。
その雄々しき歌詞と曲調が感動を呼び、瞬く間に全国壮年部の愛唱するところとなった。
「男は王者の風格を持て」――仕事、家庭、そして地域広布の第一線で、使命と責任を背負い、周囲を輝やかせる黄金柱として生き抜ぬく中で、王者の風格が磨かれていく。
さあ今日も、ほとばしる滝の如く、威風堂々の人生勝利の旅を――。
“この歌を歌いながら、人生の舞いを舞うように、明るく、力強く広布の旅を続けていきたい”――「人生の旅」が誕生した当時の本紙をひもとくと、第一線の隅々まで、新壮年部歌の喜びが広がっている様子が記されている。
また、歌詞に込められた思いや意義が、小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章につづられている。
ガンジーの言葉は森本達雄訳『わたしの非暴力』みすず書房
 
「滝の詩」
1971年(昭和46年)6月12日。
池田会長(当時)は、青森市を訪問。翌13日には、市内の青森山田高校の体育館にて、約3千人の同志と記念撮影を行った。
 14日には、十和田湖奥入瀬渓流へ。後日、「滝の詩」を詠んだ。
 
「滝の詩」
  滝の如く 激しく
  滝の如く 撓まず
  滝の如く 恐れず
  滝の如く 朗らかに
  滝の如く 堂々と
  男は 王者の風格を持て
 
この「滝」の詩の誕生から23年後の平成6年6月。スコットランドの名門グラスゴー大学から、 池田名誉会長に「名誉博士号」が授与された。
グラスゴー大学のフォーブス・マンロー博士が創価大学で記念講の最の滝の歌について言及されております。
青森県奥入瀬で詠われた創立者の「滝」の詩について言及。
「私は19946月、創大創立者池田大作先生に対するグラスゴー大学名誉博士号授与式の推挙で、奥入瀬の滝の詩を引用させてもらいました。
『滝の如く激しく滝の如く撓まず 滝の如く恐れず 滝の如く朗らかに 滝の如く堂々と 男は王者の風格を持て』とのこの詩は、池田先生の堅実で、信頼でき、誇り高き真のリーダーとしての人格を表現するのに最も適していると思いました。
さらに先生の多くの美しい詩に触れ、青少年時代のことを思い出しました。スコットランドは、北海道とほぼ同じ広さと人口。私の故郷スコットランド北部のハイランドは、山、川、そして滝があり、青森と非常によく似ています。最初に奥入瀬の滝の詩を読んだ時、地球の何千マイルも離れた
青森に思いをはせたことを昨日のように思い出します」と語りました。』
最後の歌詞が「滝の如く堂々と 男は王者の風格をもて」
ほんとに男(人間)は師子王のごとき王者の風格を備えなければなりません。
まさに池田先生の態度、振舞いそのものが王者の貫録というものです。
 
5 常勝の空             (2018.7.1)
 
今再びの陣列で師弟の凱歌を
 なぜ関西は強いのか。「師弟の絆」が強いからだ。
関西の隅々に、親から子や孫の世代へ、師の心が脈打うち、流れ通っているからだ。
そこにはいつも「常勝の空」の歌声があった。
1978年(昭和53年)7月の初め、池田先生は「『関西の歌』を作ってはどうか」と提案した。
当時、第1次宗門事件の嵐あらしが吹き荒れていた。
広宣流布の不滅の金字塔を打ち立てた「大阪の戦い」から22年、21世紀まで22年余。
新世紀への折り返しに当たって、関西魂を継承し、新たな飛躍を期す“誓いの歌”が必要だと考えたのである。
同年7月8日午前、池田先生のもとに、関西の友が作成した原案が届とどいた。
先生は同日午後から、共戦の同志に思いをはせつつ、本格的な作詞に取り掛かかる。
「今再びの 陣列に……」
のちに池田先生は「冒頭は、この言葉しかないと思った」と。
無名の庶民がスクラムを組み、前人未到の歴史を勝ち開いてきた関西。
魔性の権力の横暴に憤怒し、血涙を拭って挑み立ち、常勝の城を築いた関西。
どこよりも師弟の絆強き君たちが、嵐をついて「今再びの陣列」を築き、広宣流布をけん引していくのだ――との万感の思いが込められていた。
その後も、池田先生は激務の合間をぬって、歌詞に手を加くわえた。
作曲を担当する壮年に、節を付けて歌ってみせるなど、助言を重ねた。
こうした精神の燃焼の末に、「関西の歌」は完成した。
同年7月17日付の「聖教新聞」関西版に、歌詞と楽譜が発表された。
「君と我われとは久く遠より」「護もりに護らん我わが友を」
歌詞からほとばしる師の慈愛に触ふれ、関西中に電撃が走った。
そして同日夜、関西戸田記念講堂で行われた記念幹部会で、熱き歌声が轟いたのである。
同年8月上旬、池田先生は「関西の歌」を「常勝の空」と名付けた。
以来、この歌は、常勝関西の代名詞となる。池田先生はつづっている。
「関西の歌『常勝の空』は、私が戸田先生にお聞かせしたかった、第一の歌である」
発表から40周年。
巡り来る「7・17」を前に、世界が仰ぐ関西の天地には、きょうも、“今再び”の師弟の凱歌が響ひびき渡わたる。