〈歌声高く 誕生40周年の学会歌〉NO.2

11 ああ感激の同志あり           (2018.8.1)
 
本陣に「勝利」の二字を
学会の歴史は東京から始まった。牧口先生も戸田先生も、池田先生も、この東京から広布の戦さの火ぶたを切った。
あらゆる権力が集中する首都において、民衆の自立と幸福のための戦いを起こせば、障魔の嵐が起こるのは必然である。
だからこそ、東京が勝てば、世界広布の未来もまた、大きく開かれていくことになる。
池田先生は、四国指導のさなかにあった1978年(昭和53年)7月25日夜、東京の使命と責任の大きさに思いを巡らせていた。
東京には多彩な人材がそろっている。同志の数も多い。
だが一方で、一人一人の責任感や使命感の希薄化を招きやすい。
先生は、東京がこの宿命を打ち破るには“生命を覚醒させる歌”が必要だと考え、筆を執ったのである。
1週間後――8月1日付の本紙1面に「待望の『東京の歌』が完成」との見出しが躍った。
タイトルは「ああ感激の同志あり」。
先生は“人と人との触発の中で生まれる感激こそが、東京を一つにし、一人一人の前進の活力になる”と結論したのだ。
翌日、先生が出席して行われた東京支部長会で、東京の歌が力強く響きわたった。
 
 「おお東天に祈りあり」
 「おお中天に燦々と」
 「夕陽をあびて尊とくも」
 「夜空に満天の星座あり」
 
朝の祈り、中天の燦たる光、夕陽のなかを走る友、満天の星の下の語らい……一人の同志が真実の信仰を持つ感激を胸に、学会活動に走り抜ぬく一
日の光景が格調高く表現された、今までにない新しい歌だった。
池田先生はつづった。
「東京は、本来、力を出せば無敵です。だから、『汝の勝利は 確かなり』なんです」
「ああ感激の同志あり」が誕生したその年、先生は、総東京各地の歌も作り、贈っている。
練馬区・北町地域の支部歌「北町広布」(同年7月)、世田谷の歌「地涌の旗」(同年10月)、そして山梨の歌「文化と薫れ」(同年11月)である。
共に築かん 北町広布――「北町広布」は池田先生が作詞・作曲した学会歌の中で、唯一の「支部歌」である。
支部は、地域広布を担う最前線の舞台だ。それだけに苦労も悩なやみも大きい。
歌には“一番苦労した人を、一番讃え、励ましたい”との思いが込こめられていた。
嵐に勝利の この我われは――世田谷の歌「地涌の旗」に託した真情を、先生はこうつづっている。
「世田谷の同志が嵐に立ち向かう勇気をもって、敢然と前進を開始すれば、必ず時代は変わる」と。
大東京をけん引しゆく旗手こそ、世田谷家族にほかならない。
山梨の歌「文化と薫れ」は、池田先生が山梨の友の要請を受け、原案を基もとに本格的な作詞に取り掛かった。
歌詞の完成は11・3「創価文化の日」であった。
いざいざ立ちなむ 山梨は――友は今、この歌を口ずさみながら、秋の山梨青年城総会に向けて弘教拡大に励んでいる。
東京、第2総東京、そして山梨。この広布の本陣・総東京の使命は永遠に変わらない。その使命とは「勝利」の二字である。
 
MEMO
東京の歌「ああ感激の同志あり」の誕生の経緯は小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章、練馬区・北町地域の支部歌「北町広布」の発表の模様は同巻「広宣譜」の章、世田谷の歌「地涌の旗」と山梨の歌「文化と薫れ」の制作の淵源は第29巻「常楽」の章に描かれている。
 
12 正義の走者      (2018.8.4)
 
創価のメロスよ、誓いの道を
友との約束を守るため、彼は走った。
度重なる困難に力尽つき、諦らめそうになっても、「私を、待っている人があるのだ」「私は、信頼に報いなければならぬ」と、自らを奮い立たせながら――。
太宰治の名著『走れメロス』の主人公の力走に、池田先生は、誓いの道をひた走る未来部の宝友の姿を重ねた。
第1次宗門事件という、創価の師弟の絆が分断されようとした障魔の嵐の中で、先生が“創価のメロス”たる後継の友に贈った歌がある。
その名も「正義の走者」――。
先生が作詞の筆を執ったのは、40年前の1978年7月23日。場所は岡山文化会館(現・岡山南文化会館)であった。
未来部は全員が創価の大切な後継者しゃである! 21世紀の広宣流布のバトンを託す正義の走者である!
先生の万感の思いは、瞬く間に歌詞となってあふれ出た。
1、2番では、“自身の心を制覇し、信義を生涯貫ぬく”大切さ、“一人立つ信念の人生に、最も美しい友情が生まれる”ことを歌詞にしていく。
そして3番の最後の言葉は、既に決めていた一節「ああ柱たれ 我れ等の時代の」に。
「皆が自分の世代の広宣流布に責任をもち、信頼の柱となり、友情を広げていくなかに、仏法の人間主義の着実な広がりがある」との思いを託した。
そして同日夕刻、「できたよ!」と、当時の高等部長に、完成したばかりの歌詞を書いた紙が手渡されたのである。
その後、四国で曲がつけられ、新・高等部歌として8月1日付の聖教新聞で発表されると、全国の部員の喜びが爆発。
2日後の8月3日には、第11回高等部総会(立川文化会館)の席上、部歌が初めて披露された。
先生は語っている。
「私は、愛する後継の皆みなさんが、一人も残らず、正義と勝利の人生を生き抜ぬいてくれることを信じ、祈って、『正義の走者』を贈りました」
「『正義の走者』は私の遺言であります」
「正義の走者」は、友から友へ、親から子へと歌い継がれていく。
2010年7月には、池田先生が歌詞を加筆し、「未来部歌」として生まれ変わった。
誕生40周年の今夏、未来部を中心とした各地の集いで、「正義の走者」の歌声が高らかに響きわたっている。
勉強に、クラブに、親孝行にと、自らが決めた道を突つき進すすむ友もいる。
一方で、友人との関係や家族の病など宿命の嵐に悩み、立ち止まる人もいるかもしれない。
だが君たち、あなたたちには、順風の時も逆境の時も、変わらずに皆の成長を信じ、祈り、励まし、待っている師匠がいる。
メロスは言う。「走るのだ。信じられているから走るのだ」
後継の友よ、走れ! 自分のために。平和のために。信じてくれる師匠のために。
 
MEMO
「正義の走者」の誕生の淵源や意義は、小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章や、SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)の番組「未来に羽ばたく君へ――池田先生と未来部」で紹介されている。
 
 
13 青葉の誓い    (2018.8.8)
 
不撓不屈の「みちのく魂だましい」わが胸にある友は言う。
それは、「喜びの歌だ」と。折伏を終え、同志と歩いた月光の夜の道、その歌を口ずさみながら、歓喜を噛み締しめた思い出は、数知れない。
ある友は言う。それは、「勇気の歌だ」と。病苦、経済苦、そして大震災――不安と悲しみの中にあった時、その歌が、どれほど自らを鼓舞してくれたか。
東北の歌「青葉の誓い」には、同志の数だけ、忘れ得えぬ広布と人生の物語がある。
その誕生の瞬間もまたドラマであった。
1978年(昭和53年)8月6日、東京の創価女子会館で行われていた東北女子部の勤行会に、朗報が飛び込こんだ。
「今、池田先生が東北の歌をつくってくださっております!」
この日、東北女子部の代表が上京していると聞いた先生が、ほぼ完成していた歌に曲を付けながら、推敲を開始したのである。
清書された歌詞の入った封筒が会場に届いた。
まず1番の歌詞。続いて2番、3番。さらには譜面まで。
女子部の友は師の慈愛に目を潤ませながら、「青葉の誓い」を何度も歌った。
この歌は同日、山形県米沢市で行われた「置賜ふるさと祭典」のために、電話で歌詞とメロディーが伝えられた。
置賜は、第1次宗門事件の嵐が激はげしく吹き荒れた地域である。
夜の公演の部のフィナーレの後、歌の誕生が劇的に発表され、そのまま全員で合唱へ。東北の天地に「青葉の誓い」が初めて響きわたった。
「青葉の誓い」の歌詞と楽譜が聖教新聞に掲載されたのは、8月8日。友は振り返る。
歓喜の波動が、歌声と共に、瞬く間に東北の隅々にまで広がっていくのを感じました」
東北の歌は年々歳々、歌い継がれながら、師弟の心を結ぶ共戦の歌として、その輝きをより増していく。
「あの時ほど、この歌に励まされたことはない」と多くの同志が異口同音に述懐するのは、2011年3月11日の東日本大震災後のこと。
一時的な避難所となっていた会館で、音楽隊の演奏に合わせ、声を振り絞るようにして歌ったあの日あの時――「涙があふれて仕方がなかった」と。
先生はつづった。「大好きな『青葉の誓い』の歌声が、私の胸に響かぬ日は、一日たりともない」「健気な東北の友の『心の財』が積まれた『功徳の山々』は、絶対に壊されない」
この歌が東北に響く限り、不撓不屈の「みちのく魂」も受け継つがれていく。
 
MEMO
東北の歌「青葉の誓い」の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章につづられている。
 
 
14 ああ誓願の歌             (2018.8.16)
 
「誓い」とは歴史をつくる「力」
誓願」に生きる人は強い。心に師を持つ人生に、断じて敗北はない。
北陸の歌「ああ誓願の歌」を歌うたび、友のその確信はいやまして燃え上がる。「ちかいし願ねがいやぶるべからず」(御書232ページ)との御聖訓のごとく――。
“「北陸の歌」を作ったよ!”。1978年(昭和53年)8月8日。東京・信濃町で行われた全国県長会議の冒頭、池田先生は、最前列に座すわっていた北陸婦人部の友に語り掛かけた。
実はその前日、北陸の代表が意を決して、先生に歌の制作を嘆願していた。
それからわずか一日。激務の中にあっても、弟子の思いに応えようとする師の真心に、友の胸は震えた。
「まだ、手を入れるからね」。先生はその後も幾度の推敲を重ね、夜遅くまで、北陸の友のためにペンを走らせた。
第1次宗門事件の渦中である。悪侶が一部週刊誌しの記事を手に、狂ったように学会批判を繰くり返していた。
北陸でも、事態は深刻化していた。
先生は、後に当時の真情をつづっている。「私は、北陸の同志が、かわいそうで、かわいそうでならなかった。悔しくて、悔しくてならなかった」
北陸の友を励ます歌を! 永遠なる正義の凱歌を!――この師の魂が凝結した「ああ誓願の歌」の歌詞と譜面が本紙に掲載されたのは8月10日。
北陸中に歓喜の波動が広がった。
歌詞は4番まで。先生は「それぞれ3行目が大事」だと言う。1番から4番の歌詞の3行目に配された、「常楽」「遊楽」「同心」「誓願」の文字。いずれも仏法上重要な意義を持つ。
 
 常楽の北陸たれ!
 遊楽の北陸たれ!
 同心の北陸たれ!
 そして誓願の北陸たれ!
 
この「四つの北陸」の指針を掲げ、同志は勢いきおいよく反転攻勢ののろしを上げたのである。
6年後の84年8月26日には、石川・金沢市内で第1回「北陸平和文化祭」を堂々と開催。
グランドフィナーレを飾ったのは「ああ誓願の歌」の大合唱だった。
何があろうとも、師匠と共に、この「誓願」の道を歩み抜ぬく!――5万人の誓いの歌声が轟き渡たったこの祭典を、先生は「200点満点の文化祭」とたたえた。この日が後に「北陸の日」となった。
以来、北陸は8月を、勝利のリズムを刻む“躍進の月”として、幾く重にも広布拡大の金字塔を打ち立ててきた。
今夏も「師弟誓願 拡大月間」を驀進中だ。
今月12日の北陸男子部大会では、後継の若師子たちが「ああ誓願の歌」を力ちから強く歌い上げた。
「『誓ちかい』とは、歴史をつくる『力』である」との師の言葉を胸に、北陸の友が創価の新たな歴史を開く。
 
 MEMO
北陸の歌「ああ誓願の歌」の誕生の淵源や意義は、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章につづられている。
 
 
15 ああ陽は昇る/静岡健児の歌   (2018.8.21)
 
東海道に「太陽の仏法」は厳然
「天晴れぬれば地明らかなり」(御書254ページ)とは「観心本尊抄」の一節である。
「太陽」がひとたび昇のぼれば、夜は去り、大地はみるみる明るくなる。
同様に「太陽の仏法」を受持するならば、人間の生命と時代を覆う闇を照らし晴らす、智慧と希望の陽光を放っていける。
日蓮大聖人が妙法流布の主戦場と定められたのは、当時、権力の魔性の闇が最も深い地であった。鎌倉幕府の本営があった神奈川。
そして、かの執権・北条得宗家の本領があった静岡。
この東海道の天地において大聖人は1260年7月、「立正安国論」をもって時の権力者・北条時頼を烈々と諫暁されたのである。
池田先生は東海道を「広宣流布の最重要地域」と定めた。
仏法流布の歴史に照らし、世界広布の未来を見据すえ、「正義」と「共戦」の旗を託すべき友がここにいると固く信じたからだ。
今から40年前、あの第1次宗門事件の渦中にあってもそうだった。
1978年(昭和53年)の8月8日、創価文化会館(当時)で行われた県長会議。先生は北陸の歌と共に、神奈川の歌「ああ陽は昇る」の歌詞を発表したのである。
「『ああ陽は昇る』――ここに私は、万感の思いを込こめました。
神奈川の皆さんは、常に、何があろうが、わが胸に生命の太陽を輝やかせ続けていただきたい」
烈風の中、苦難と戦い、必死に活路を開こうとしている同志の胸に、希望の旭日よ昇れ!――そう訴えるかのような師の力強い声だった。
日蓮仏法は太陽の法門です。ゆえに、私たちも太陽の存在であらねばならない」
闇を晴らす仏の生命は、わが胸中に! この確信は歌声となり、神奈川の全同志へと広がっていった。
同年11月、静岡の同志にも朗報が届く。池田先生から、県歌「静岡健児の歌」が贈られたのだ。
同月29日には県幹部会が開かれ、歓喜の歌声が初披露された。
堂々として揺がぬ「富士」、法難に屈せず偉大な歴史を刻んだ「熱原の三烈士」の殉難。歌詞には“静岡の心”が刻まれていた。
地涌の我等も、かくあれ!」と、静岡の友は、悪僧の“衣の権威”と対峙しながら、大前進を開始した。
県歌発表から30年後の2008年11月、池田先生はこの歌に加筆した。2番の「世界の友は」を「正義の同志ともは」に、3番の「世紀の功徳と」を「師弟の陣列」に、最後の「いざや舞まえ」を「いざや勝て」と。
さらに第2次宗門事件での“魂の独立”から25周年となる16年11月には静岡に愛称が誕生する。その名も「太陽の静岡」。
先生は断言した。「『太陽の静岡』が栄え昇るならば、世界広布の地平は明るい」
太陽は万物を育はぐくむ源もとだ。神奈川、そして静岡の地に今、陸続と育つ青年部・未来部の若き生命が「東海道に太陽の仏法あり!」と、その実証を示している。
 
MEMO
神奈川の歌「ああ陽は昇る」の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章、静岡の歌「静岡健児の歌」発表の模様は第29巻「力走」の章に描かれている。
 
16 信濃の歌/雪山の道     (2018.8.25)
 
信越に人材山脈は堂々と
“人材山脈”と仰がれる信越。そこには常に、師弟共戦の歌声があった。
池田先生は長野に「いつも歌声の長野」との指針を贈り、「明るいはずんだ歌声が、いつもみなぎっている長野であってほしい」と期待を寄せてきた。
その長野に県歌「信濃の歌」が誕生したのは1978年8月23日。先生はこの前日、新出発の大会が行われる松本へと向かう列車の中で、筆を走らせていた。
会館に到着するや、居合わせた同志、功労者、運営役員を激励しつつ、合間を縫って作詞を続けた。
推敲が重ねられ、作曲担当者の元に歌詞が届いたのは午後10時過ぎ。さらに翌23日も、県歌発表の会合が始まる直前まで手直しが続いた。
“まだ、なすべきことはある! 断じて妥協などすまい! ここに、全精魂を注ぎ尽くすのだ!”――当時の真情を先生はつづっている。
師弟の魂をとどめるこの歌と共に、長野は歩み続けてきた。
2008年、長野研修道場で開催された青年部代表研修会で、代表が「信濃の歌」を歌った。
池田先生は“勢いよく歌おう。「信濃ここにあり!」と歌っていくんだよ”と――。
師に誓ちかった歌声を響ひびかせながら、友は誉ほまれの信濃路を広布に駆ける。
新潟県歌「雪山の道」が発表されたのは、78年10月のこと。
当時、池田先生は識者との会見や関西指導など、多忙を極めていた。
しかし、“深い雪の中で活動することになる冬が訪おとずれる前に、何とか新潟の同志に歌を贈りたい”との思いから、時間を惜おしんで、移動の車中や歩く間も、一行、二行と歌詞を紡いでいった。
10月12日に歌詞ができ上がり、同25日に曲が完成。
“新潟に県歌ができた”との報は、瞬く間にメンバーに伝えられた。
そして同30日、聖教新聞の新潟版に、歌詞と楽譜が掲載されたのである。
陰険な悪僧の仕打ちに必死に耐えてきた新潟の同志に、爆発的な喜びが広がった。
翌79年8月、会長を辞任して間もない先生に、一目でも会いたいと、代表が長野研修道場へやって来た。
“先生の前で、あの歌を”――しかし、いざ“その人”を前にすると涙なみだが込こみ上げ、声にならなかった。けなげな弟子を温かく励はげます先生。
師の慈愛に、反転攻こう勢せいを誓った。
今、県歌の誕生から40星霜。幾多の戦いを勝ち越こえて、牧口先生の故郷である柏崎には、牧口先生の名を冠した、全国で初の墓地公園の整備が進む。
大聖人流罪の地・佐渡にも、後継の人材が陸続と躍り出る。
厳しい雪も、襲い掛る苦難も、不撓不屈の信心で乗り越えて、友は不動の人材山脈を築きゆく。
 
MEMO
長野県歌「信濃の歌」誕生の淵源や意義は小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章、新潟県歌「雪山の道」は第29巻「常楽」の章につづられている。
 
17 三代城の歌(ああ共戦の歌)    (2018.8.27)
 
北海天地に師弟の魂厳たり
 「共の一字は日蓮に共する時ときは宝処に至る可べし」(御書734ページ)
池田先生は御義口伝のこの一節を通して、「『共』とは師弟不二であり、師弟勝利の大道なのだ」とつづった。
師と弟子が心を一つにして広布に戦う「共戦」があるかどうか。
「師弟の生命が共戦ならば、そこに『万人成仏』の法華経の魂が脈々と流れ通う」(「随筆 我らの勝利の大道」)と。
創価の三代の師弟を貫ぬく共戦の魂が、とどめられた場所がある。
北の大地・北海道だ。
初代会長・牧口常三郎先生が蛍雪の青春を送り、第2代会長・戸田城聖先生が青雲の大志を育くみ、若き日の池田先生が札幌、小樽、夕張と正義の闘争を刻んだ舞台
――その地に池田先生作詞の方面歌が誕生したのは40年前。
1978年(昭和53年)の8月であった。
「『ああ共戦の歌』が完成」との見出しが、聖教新聞8月23日付1面の真ん中に力ら強く躍った。「恩師と共に 厳たりき」と歌詞に、北海道の同志の心も躍った。“何があろうと、我われらは