第2回 方便品第二 (上)  (2019.2.19)

仏の誓願 ―― 自身と等しい境地に一切衆生を導くこと
■大要
「方便品第二」では、瞑想(めいそう)から立ち上がった釈尊が、諸仏の智慧の偉大さをたたえ、仏がこの世に出現した目的を明らかにします。それでは、その内容を追ってみましょう。
 
●シーン1
瞑想から立ち上がった釈尊は、質問されていないのに自ら、「智慧第一」といわれる舎利弗に向かって語り始めます。
「諸仏(しょぶつ)の智慧(ちえ)は甚深無量(じんじんむりょう)なり。其の智慧の門は難解難入(なんげなんにゅう)なり。一切の声聞(しょうもん)・辟支仏(びゃくしぶつ)(=縁覚)の知ること能(あた)わざる所なり」(法華経106ページ)と、諸仏の智慧を讃嘆(さんたん)し始めるのです。つまり、“仏の智慧は深く計り知れないので、仏にしか理解できない”と宣言したのです。
その甚深無量の仏の智慧とは、いったい何でしょうか。
それは、「唯(ただ)仏と仏とのみ乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究(きわ)尽(つく)したまえり」(同108ページ)と、「諸法の実相」を究めた智慧であると語ります。
続いて、「諸法の実相」は、「所謂諸法(しょいしょほう)の、如是相(にょぜそう)・如是性(にょぜしょう)・如是体(にょぜたい)・如是力(にょぜりき)・如是作(にょぜさ)・如是因(にょぜいん)・如是縁(にょぜえん)・如是果(にょぜか)・如是報(にょぜほう)・如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)なり」(同ページ)であると明かします。
方便品(ほうべんぽん)の冒頭からここまでが、朝夕の勤行で読誦(どくじゅ)している箇所です。
 
●シーン2
仏の智慧を讃嘆(さんたん)してやまない釈尊(しゃくそん)に、会座(えざ)にいる二乗(にじょう)(声聞・縁覚)の衆生が疑問を抱きます。
“理解できないといわれる仏の真意は何であろうか?”
舎利弗(しゃりほつ)が代表して、“甚深(じんじん)の法を讃嘆する理由を明かしてください”と訴えますが、釈尊は退(しりぞ)けます。
舎利弗は、重ねてお願いしますが、釈尊は了解しません。それでも諦(あきら)めずに舎利弗は懇願(こんがん)しました。3度目の願いが届き、釈尊法華経を説く決心をします。
ところがその時、5,000人の増上慢(ぞうじょうまん)の四衆(男女の出家・在家の弟子)が座を立って、説法の場から退出します。それに対して、釈尊は黙って去らせます。
 
●シーン3
釈尊は、「諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう」(同120ページ)と、ただ一つの特別に大事な目的があって、諸仏は世に出現したのだと述べます。
大事な目的とは何でしょうか。
それは、あらゆる衆生の生命に具(そなわ)わる仏知見(仏の智慧、仏界)を開かせ、示し、悟らせ、その境地に入らせること(開示悟入(かいじごにゅう))であったと明かします。
つまり一切衆生を成仏させることが、仏にとっての一大事なのです。
続いて、過去の諸仏、未来の諸仏、現在の十方諸仏、そして釈尊自身の説法を例として挙げ、方便や因縁(いんねん)、譬喩(ひゆ)を用いて種々の法を説いてきたのは、すべて一仏乗を説くためであったと語ります。
法華経以前の諸経で説かれた声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)・菩薩(ぼさつ)を目指す三乗の修行は方便の教えであり、仏の真意は万人を成仏に導く一仏乗の法華経であると明かされたのです。このことを「開三顕一(かいさんけんいち)」と言います。
仏である自身と等しい境地に衆生を導くこと(如我等無異)が、仏の誓願であり、法華経を説くことで成就したと語ります。
これが方便品第二の主なストーリーです。
 
■開示悟入
仏がこの世に出現した根本目的が「開示悟入(かいじごにゅう)」です。
「方便品」には、「諸仏世尊は衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」(同121ページ)と説かれています。
あらゆる衆生の生命に具わっている仏知見を開かせ、示し、悟らせ、その境地に入らせることが、仏がこの世に出現した目的なのです。
この表明は、万人成仏の道を開く、生命観の大転換です。
法華経以前の教えでは、仏界と九界は断絶していると考えられていました。特に、二乗の声聞・縁覚は、成仏できないとされていましたが、開示悟入が説かれたことによって、一切衆生の生命に仏界が具わり、それを開き現すことができると明かされたのです。つまり、九界と仏界が互いに具えあっているという十界互具(じゅっかいごぐ)の法門が説かれているのです。
 
池田先生は、「衆生の仏知見(仏界)を開かせるということは、衆生に仏知見が具わっているということです。仏知見があるのは、衆生が本来、仏だからです。つまりこれは『衆生こそ尊極の存在なり』という一大宣言なのです」(『法華経智慧』普及版〈上〉)と語っています。
全ての人を、かけがえのない存在として見る法華経智慧には、生命尊厳の哲学が光っているのです​​
(次回、「方便品第二」()では、「方便」「開三顕一」を紹介します)。
 
なるほど
「方便品」の冒頭で、釈尊は質問されていないのに、なぜ舎利弗に甚深無量の法を、自ら語り始めたのでしょうか。
問われていないのに、自ら法を説くことを「無問自説」といいます。
これは、仏の智慧をそのまま説こうとした随自意(ずいじい)の教えであること。また、仏の智慧があまりにも深く、計り知れないので、質問することもできないことを表しています。
また、仏の智慧は、頭の良さだけでは、到底、理解できないことを意味しているともいえるでしょう。
池田先生は、「釈尊の弟子で『智慧第一』と讃えられるほど優秀だった舎利弗(しゃりほつ)も、最終的には『解(自身の智慧)』によってではなく、師の広大無辺な教えを信じることによって、法華経の妙理を会得しました。まさに『信』こそ、仏道を成就する要諦(ようてい)なのです」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第20巻)と。
法華経を学ぶといっても、根本に「信」がなければならないのです。
 
法華経智慧』から 人間の可能性を開花させる方便
法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的であると説かれている。滅後の衆生、とくに末法という濁世の衆生を救わなければ、その理想は叶えられない。だから滅後の衆生のための教えを仏が説かないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です。
方便品の冒頭での仏智の讃嘆は、文底から言えば、南無妙法蓮華経の讃嘆にほかならない。そこに、私たちがこの部分を読誦する最大の理由があります。
釈尊は「大悲の心」ゆえに悩んだのです。慈悲の「悲」とは「同苦」を意味する。「救いたい」という思いがあるから、「どう救えばよいのか」と悩むのです。そういう慈悲があるからこそ、智慧が湧く。それが「方便力」です。「人間教育」の芸術です。仏とは、ある意味で、悩み続ける人のことかもしれない。人々の「幸福になる力」を開くために。自身の使命を果たすために。
(普及版〈上〉「序論」、「方便品」)
 
舎利弗の修行 大願に生き抜く人生を
御書に「舎利弗は仏になろうと、長い間、菩薩の修行をしたが、堪(た)えられずに二乗の道に入った」(1560ページ、趣意)と仰せです。
何に堪えられなかったのでしょう。
――舎利弗が過去世において、菩薩道の修行として布施行(ふせぎょう)に励んでいた時、婆羅門(ばらもん)が訪ねてきて眼が欲しいと言いました。舎利弗が眼を差し出したところ、感謝の言葉さえないばかりか、その臭いを嫌って地面に捨てられ、足で踏みにじられました。舎利弗は、“こんな人を救うことなどできない”と、長年続けてきた修行をやめてしまったのです――。
大聖人は、舎利弗のことを他人事ではないとされ、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(御書1561ページ)と仰せです。
頭で理解することと、現実にそれを実践できるかどうかは、別の問題なのです。大事なことは、悪縁に紛動(ふんどう)されずに、広布の大願に生き抜くことなのです。