池田先生と山形 (2019.2.18)

さあ民衆勝利の理想郷へ!
開拓とは自分自身への挑戦
池田先生が、秋田から岩手・盛岡市に向かう田沢湖線の車中から撮影。眼前に広がる水田のように、みずみずしい生命力で今日もはつらつと前進!(1985520日)
池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。
 
人材の大河を
岩手県出身の歴史的人物といえば、教育者の新渡戸稲造(にとべいなぞう)、詩人の宮沢賢治(みやざわけんじ)、富田砕花(とみた さいか)らの名が挙がる。
池田先生は2002年(平成14年)1月の随筆で、こうした歴史上の逸材(いつざい)を輩出(はいしゅつ)した岩手の地から、妙法の逸材も大河の流れのごとく、続くにちがいないと強調した。
日本第一の広大な県の悠久(ゆうきゅう)の天地は、世界第一のすばらしいイーハトーブ(理想郷)である。
「日高見(ひたかみ)の国」と謳(うた)われた岩手の山河は、人を鍛え、豊かにする。陸奥(むつ)の大動脈・北上の久遠の流れが、不撓(ふとう)の歩(あゆ)みを教えたのか。蒼天(そうてん)に凜(りん)と聳(そび)える八幡平(はちまんたい)の雄峰(ゆうほう)が、不屈の矜持(きょうじ)を鍛(きた)えたのか。
そしてまた、太平洋の波浪が寄せ来る三陸の絶景が、世界の心を開いたのか。歴史上の逸材も、皆様方の故郷から限りなく輩出している。
おお、妙法の逸材も、大河の流れのごとく、岩手の大道に続きゆくにちがいない。
幸福への前進、平和への行進は、いよいよ力強く勢いを増していくだろう。
自分のみの幸せが、私たちの目的ではない。友の笑顔こそが、私たちの勲章である。
立正安国論」には、厳然と記されている。「一身の安堵(あんど)を思わば先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈らん者か」(御書31ページ)と。
この日蓮大聖人の仰せ通りに、私が敬愛する岩手の同志は、昼となく夜となく、平和のために、無私の奔走(ほんそう)をされている。
その尊い日々の精進に、私は再び合掌(がっしょう)し、心からの大拍手を贈りたい。
諸天善神も、また、同じことだろう。
大好きな岩手の友よ!
頼もしい岩手の友よ!
新しい東北を、世界の東北を、絢爛(けんらん)、燦然と後世の歴史の上に輝かせていくのは、皆様方、岩手の使命であることを、どうか、誇りとしていただきたいのだ。
1999年(同11年)7月の随筆では、使命の大地を力強く駆ける岩手の友の奮闘をたたえた。
岩手の天地は広大である。「未来」という、あまりにも大きい、21世紀への不滅の晴れ舞台が、生き生きと待っている。
その地で、使命に活躍される方が、一番、大事である。
御本仏から、「其の国の仏法は貴辺(きへん)にまかせたてまつり候ぞ」(御書1467ページ)と託された、不思議なる大菩薩であると、私には思えてならない。
その方々を尊敬し、いっさいを願っていく以外に、広宣流布は達成できない。
わが岩手の同志には、「落胆」という二字はない。「勝利」という二字と、「栄光」という二字しかない。
 
信心の証明者
本年は“水沢指導”から40周年の節目である。第1次宗門事件の嵐が吹き荒れていた79年(昭和54年)1月、池田先生は水沢を舞台に、幹部会や自由勤行会、青年部の代表との記念撮影等を行い、限りない励ましを送った。
12日、先生は水沢文化会館で開かれた岩手県新春記念幹部会の折、仏法における人間の尊厳観・平等観・幸福観を語った。
この世界で、もっとも大切なのは、自分自身である。だれ人たりとも幸福になる権利がある。人生の喜びを満喫していく権利がある。
しかし、現実社会はまさに「三界は安きこと無し 猶(なお火宅(かたく)の如し」の経文の通りであるといってよい。自分自身の一寸先も分からぬのが、人生の実相なのである。
その幸福への道として仏法がある。政治、経済次元を超克して、自身の宮殿の中の幸福を開きゆくことが信心なのである。御本尊様の功徳は平等大慧(びょうどうたいえ)であられる。
役職や社会的地位には関係ない。強き信行の人が、はじめて幸福への前進をすることができるのである。皆さん方が勇気をもって、忍耐強く正しい信心を貫いていかれるよう祈ってやまない。
ともどもに仏法家族である。妙法のもとに兄弟である。姉妹である。利害、複雑な社会にあって、人間と人間とが麗(うるわ)しく生き抜いていくことは、幸せなことである。
この尊い信心の和合の世界を断じて崩してはならない。
85年(同60年)520日、池田先生は岩手県記念代表者会議(岩手文化会館〈現・盛岡文化会館〉)に出席し、懇談的にスピーチ。「岩手広布の新たな人材の城の建設を」と期待を述べつつ、信仰者としての姿勢を語った。
信心しても病気になる人もいる。また、さまざまな事故にあう人もいる。それぞれの境遇と境涯においても、千差万別の姿がある。
この千差万別の人類のなかにあって、千差万別の現証を示していくところに、同じような境遇と境涯の人々に、深く納得せしめゆく信心の証明者となっていける。
したがって、千差万別の境遇の人はそれなりにまた、千差万別の同じ悩みで迷い、生きゆく人々をば救済できるにちがいない。それ自体、偉大な仏の使者なのである。
故に、その自分の境遇を信心のうえからみれば、喜びとしなければならないと私は思う。
 
勝利への一念
岩手の友にとって「希望と開拓」は永遠の指針である。
72年(同47年)714日、池田先生は盛岡市岩手県営体育館で行われた3,600人との記念撮影会に臨んだ。
席上、先生はこの「希望と開拓」の指針を贈り、「常に10年、20年先への希望と夢を保ちつつ、自己の運命、そして地域を力強く開拓しゆく人生であり、岩手であってほしい」と呼び掛けた。
のちに、この日が「岩手の日」となった。
先生は2003年(平成15年)2月の随筆で、思い出の記念撮影会を述懐しながら、「希望と開拓」の意義をつづっている。
「希望」は、いずこより来るか。それは「必ず勝つ」「必ずこうしてみせる」という強き一念から起こる。自分の思いこそが未来を創る。「未来の果」は、「現在の因」に納まっているからだ。
そして「開拓」とは、自分自身への挑戦だ。
人は、誰でも未踏の原野をもっている。それも、どこか遠い彼方ではなく、ごく身近にあるものだ。
苦手だからと、つい避けてきた課題。先入観から「どうせだめだ」と諦めてきたり、「いつかやろう」と思いながら、いつも後回しにして手つかずだった問題……。
最も手強い壁は、実は心の中にある。
ゆえに、勇気をもって自分と向き合い、「自己拡大の戦い」「人間革命の戦い」を起こすことだ!
「汝自身の原野」に雄々しく挑め! その人こそ、最も勇敢なる開拓者である。
正義は叫び抜かねばならない。声を大にして、声も惜しまず、内にも、外にも、堂々と語るのだ。いな、師子吼するのだ!
御本尊の大功徳を、広布の使命に生きる喜びを、わが同志の敢闘を、そして学会の正義と真実を!
法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ)功徳まさる」(御書1242ページ)と、大聖人は教えてくださっている。
自分が叫んだ分だけ、幸福の拡大、友情の拡大、栄光の拡大があり、わが身に無量の大功徳が噴き上がるのだ