池田先生と埼玉​ (2019.3.14)


鉄桶の団結で常勝の大城を
 
師弟共戦の天地
埼玉は、池田先生が師弟共戦の魂を刻んだ天地である。1951年(昭和26年)9月、23歳の池田先生は戸田先生の名代として、川越地区での御書講義に臨む。それは足かけ3年にわたった。先生は、当時の思いを2001年(平成13年)7月の随筆に記した。
私は、夕暮れの池袋駅から東武東上線に乗った。電車は板橋を抜け、今の地名で、和光(わこう)、朝霞(あさか)、新座(にいざ)、志木(しき)、富士見、上福岡と、家々に明かりが灯る埼玉の天地を走り、やがて川越(かわごえ)に着いた。埼玉の志木支部川越地区の「地区講義」を担当するためであった。   
さらに先生は、埼玉の輝く未来を展望した。
埼玉が東京を動かし、全国の広布の原動力となる日が、きっとやって来る。新しき世紀の広宣流布の大電源地は、必ず、ここ埼玉になると!
私は一人、決意した。戸田先生の膝下(しっか)で戦う弟子として、ここ埼玉の大地に、常勝不滅なる民衆の強固な城を築いてみせると、心に誓った。
以来、広宣流布への消えることなき、この光道は、大宮(おおみや)、上尾(あげお)、熊谷(くまがや)へ、川口、浦和(うらわ)へ、さらに所沢(ところざわ)、越谷(こしがや)、三郷(みさと)、春日部(かすかべ)、久喜(くき)へと、煌々(こうこう)と光り渡っていったことは、皆様、ご存じの通りである。
 
大目的を胸に
1958年(昭和33年)42日、戸田先生が逝去。悲しみに包まれた学会の中にあって、“池田先生を第3代会長に”と推戴の声を真っ先に上げたのが埼玉だった。
先生は2001年(平成13年)3月の本部幹部会で、当時を振り返りつつ語った。
戸田先生が亡くなられた後、「われらの第三代会長を、早く推戴(すいたい)せよ!」と声を上げ、当時の学会首脳を突き動かしていったのは、埼玉の青年部であった。
「新しい歴史」は、「新しい地盤」「新しい天地」から始まる。「新しい人材」の息吹から始まる。一人の人間の気力、迫力から始まる。自分自身から始まるのである。
どうせ生きるなら、大目的に向かって、大確信をもって、自分自身の「栄光の山」を、悠然と、楽しみながら登りきることだ。
人生、弱くては、つまらない。「私は創価学会だ。だれが何と言おうが、偉大な創価学会の代表だ」。
そのくらいの決心で、胸を張っていくべきだ。自分は自分である。自分の人生である。
だれがどうとか、どう見られるとか、そんな臆病な、畜生根性は捨てて、堂々と生きて生きて生き抜いていくことだ。
埼玉の永遠の指針は「鉄桶の団結」である。
1973年(昭和48年)912日、埼玉県幹部総会が行われた上尾市の運動公園体育館には、この指針が大きく掲げられた。
これが「埼玉の日」の淵源となる。池田先生は指導集「広布の旗 師弟常勝の埼玉」の発刊に寄せ、団結の重要性をつづった。
私が、「鉄桶の団結」との指針を贈ったのは、世界でただ一つ、埼玉だけである。
「異体同心なれば万事を成じ」(御書1463ページ)
この絶対勝利の法則を、どこか一カ所が確立すれば、それが末法万年尽未来際への指標となる。そのモデルを、私は、清き埼玉に定めたのだ。
青年時代から苦楽を共にしてきた、この埼玉を、世界の友も見つめ讃える文化の香りの理想郷に――これが、私の願いであり、祈りであった。
大埼玉が、大関西と並び立って、師子王の心を出し、「師弟常勝」の城を築き上げていく限り、わが創価学会は永久に盤石なのである。
 
ここからが勝負
池田先生と埼玉の同志との師弟の絆は、いかなる烈風にも動じない。
広布と学会の破壊をもくろむ邪宗門91年(平成3年)1128日付で学会本部に「破門通告書」なるものを送り付けてきた。
その直後の128日、最初の本部幹部会が、埼玉文化会館で行われた。当時の真情を、先生は随筆につづっている。
  
「魂の独立」を勝ち取って最初の記念すべき本部幹部会は、いずこで行うべきか。
私の心は、一点の曇りもなく定まっていた。
埼玉しかない!
埼玉こそ、世界広宣流布へ飛翔しゆく新たな起点とするのだ。
わが同志は、宗門の陰謀にも微動だにしなかった。
学会は正しい! 
埼玉は強い! 
大埼玉が盤石であれば、何も恐れるものはない。
私は本当に嬉しかった。
  
さらに先生は、戸田先生と共に大宮へ足を運んだ思い出に触れ、事業の打開に挑んだ師弟の激闘を記した。
(戸田)先生は、よく私に語られた。
「人生、行き詰まった時が勝負だぞ! その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。
まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。この一念の分かれ目が勝負だ!」
そう言われながら、私の精神に深く厳として打ち込んでくださった。
「いいか、大作、途中に何があろうが、最後に勝て! 断じて勝て! 最後に勝てば、全部、勝利なのだ」
私には、一日一日が激戦の連続であった。瞬時も、感傷にひたる暇など、なかった。
師のために、億劫の辛労を尽くしゆく苦闘の連続の胸中にこそ、永遠に常勝不敗の大城が築かれていることを、私は深く実感したのである。
 
破邪顕正の闘争
2007年(同19年)58日、池田先生は日高市の埼玉池田研修道場を初訪問し、スピーチした。
敵に対して本気になって戦わない。見て見ないふりをする。そんな情けない弟子、ずるい人間であっては絶対にならない。
大きく心を開いて、本当の高次元な創価学会の精神に立って戦うことだ。「師弟不二」で戦いきることだ。「師弟」がなくなったら、学会は壊されてしまう。
幹部が先頭を切って、師匠の正義を訴える。師の真実を、日本中に叫び抜いていく。そういう埼玉をつくってもらいたい。
悪は放置すれば増長する。皆、だまされてしまう。悪人と戦わなければ、学会が破壊されてしまうのだ。
破邪顕正(はじゃけんせい)」といっても、あくまで「破邪」が先である。
まず悪と戦い、悪を打ち破るのだ。それでこそ「顕正」がある。悪を倒してこそ、初めて正義を明らかにし、宣揚することができるのである。
10年(同22年)10月、さいたま市中央区にある、さいたまスーパーアリーナで師弟常勝大会が意気高く開催された。
席上、先生が埼玉県歌「広布の旗」に加筆したことが発表され、最後の歌詞「ああ埼玉の楽土見む」が「ああ埼玉の勝利見む」となった。
明年は、歌詞の加筆から10周年。埼玉の同志は「広布の旗」を高らかに歌いながら、師弟常勝の人材の大城を築きゆく。