第1回 沖縄​ (上)

1回 沖縄​   (沖縄の人が救われることは、全民衆が幸福になる証明となる
 
創価学会の”精神の正史”である、 小説『新・人問革命』―本年98日、 30卷の連載が完結、1122日に第30巻下が発刊された。
師弟不二の共戦譜 ~小説『新・人問革命』と歩む~」と題し、 小説に登場した舞台を都道府県ごとに取り上げていく。
1回は、永遠なる「平和の楽土」 の建設をめざす沖縄。不屈の魂が燃える天地への、広布の師の思いに迫る。
 
初訪問での決意
小説『新・人間革命』第2 「先駆」の章には、会長・山本伸一が沖縄を初訪問する模様がつづられている。
池田先生は、この場面をつづるに当たり、沖縄をこう表している。
「悲しき歴史に挑(いど)み立つ、雄渾(ゆうこん)の人びとのいる沖縄の天地」 そして、戦時中、また戦後の、沖縄の悲劇の歴史に触れ、真情を記した。「伸一は、この”うるま島”の宿命を転じ、永遠の楽土を建設するために、支部を結成することを、深く、強く決意していた」――
シーンは1960(昭和35)716日。伸ーの第3代会長就任からわずか2力月半後である。
奇しくもこの日、日蓮大聖人が 立正安国論」をもって、国主諫暁された文応元年716日から、ちようど700年に当たっていた。
また、アメリカが人類初の原爆実験に成功した日も、1945716日であった。
当時、核ミサイルが、沖縄に次々と配備されようとしていた。
そうしたなかでの、伸一の初訪問である。彼は思った。
"戦争に苦しみ、不幸の歴史を刻んできた、この沖縄の人びとが、真正の仏法によって救われることは、日本国中の民衆が幸福になっていく証明となろう。
(2 「先駆」)
いかなる宿命にも、苦難の嵐にも、決して屈せずに立ち向かい、幸福の実証を示す。
そして、世界に希望の光を放ち続けていく―― それは、広布の師の沖縄に対する期待であり、沖縄の深き使命でもある。
3日間で3年分働くよ」
当時はまだ、沖縄はアメリカの施政権下。渡航するのにもパスポートが必要な”外国”であった。
伸一を乗せた飛行機が、那覇(なは)国際空港に到着した。
「先駆」の章で、この第一歩のシーンが「聖教新聞」に掲載されたのは、奇しくも94年の716日。
特に沖縄の草創の友は、34年前の池田先生の初訪問を思い浮かべ、感慨深く読んでいったことだろう。
伸一が夕ラップに姿を見せると、 空港の夕ーミナルに集っていた200人ほどの同志が歓声を上げた。
この美しき天地を、永遠の平和の要塞にしよう
伸一がロビーに到着すると、沖縄地区部長の高見福安(たかみふくやす)が待っていた。
沖縄の一粒種(ひとつぶたね)である高見は、信心の確信を得ると、愛する天地の宿命転換のため、弘教にまい進した。
先祖を神と崇(あが)める祖先信仰が根深く、本土への不信感も強い。
「ヤマトンチュゥ(日本本土の人の神様など拝めるものか」と何度も言われた。
しかし、彼は粘り強く対話を重ね、同志は人、また人と増えていった。
伸一が会長に就任すると、高見たちは伸一の沖縄訪問を真剣に祈り始めた。
沖縄中に決起を呼び掛け、上半期の弘教で沖縄地区が全国トツプの成果を収めた。
そうしたうねりのなかで、伸一を迎えたのである。
「高見にとって伸一が沖縄の地を踏んだ喜びは、筆舌に尽くせぬものがあった。
「先生、ようこそ……』と言ったきり声が詰まり、あとは、もう言葉にはならなかった。
「働くよ。1日間で1年分は働くからね」
伸一は、こう言って高見の肩をボンと叩いた」(2巻「先駆」このやりとりには、師弟の精神が凝縮している。
一人立つ精神を燃やし、わが使命の舞台を寂光土とすべく駆け巡り、勝利の姿で広布の師を迎える弟子たち。
弟子の奮闘と真心に、何倍もの激闘と誠実で応えゆく師。
伸一と高見が交わした言葉は少なかった。しかし、そこには不滅の師弟の絆があった。
弟子の感謝と決意があり師の信頼と励ましがあった。
こうして始まった沖縄訪問から、 新たな世界広布の潮流が生まれていったのである。
 
恩師の伝記小説の執筆を!
この初訪問の際、伸一は沖縄支部の結成を提案。
支部長には高見が、支部婦人部長には、上間球子(うえまたまこ)が就くことになり、翌17日、沖縄支部の結成大会が開催された。
18日、伸一たちは、地元の同志の代表と共に、沖縄戦の悲劇を刻む南部戦跡を視察していく。
池田先生は、その様子をつづっていく中で、沖縄戦の悲惨さを詳細に書き残している。
本土の捨て石とされ、多大な犠牲を強いられた沖縄。
”ありったけの地獄を集めた”とも表現されるほど、凄惨(せいさん)を極(きわ)めた。
その事実を、沖縄だけではなく、多くの人が知り、平和への闘争を決意するそこに執筆の意義があるのではないだろうか。
「先駆」の章では、沖縄戦の悲劇を通し、伸一が恩師の闘争に思いを馳(は)せていく場面が記されている。
 
楽しく、愉快に、沖縄を楽土に転じていこう
「彼は、生前、戸田城聖が、『もう、二度と戦争を起こしてはならん。
そう誓って、私は敗戦の焼け野原に一人立ったのだ』と、しばしば語っていたことを思い起こしていた。
まさに、戸田の生涯は、その残酷極(ざんこくきや)まりない戦争を遂行(すいこう)しようとする権力の魔性(ましょう)との、壮絶な闘争(とうそう)であった」
「彼(戸田城聖)の起こした戦いは、人間の生命の魔性(ましょう)の爪(つめ)をもぎとり、一人ひとりの胸中に平和の砦(とりで)を打ち立てる戦いであった。
その波は、波が万波を生むように、戸田の晩年には、彼の念願であった75万世帯の民衆の平和のうねりとなって、日本全国、 津々浦々にまで広がったのである」
「今、戸田城聖の起こした平和の大潮流は、慟哭(どうこく)の島・沖縄にも広がり、友の歓喜は金波となり、 希望は銀波となったのである。
山本伸一は、その師の偉業を永遠に伝え残すために、かねてから構想していた、戸田の伝記ともいうべき小説を、早く手がけねばならないと思った」
「伸一は、戸田の7回忌を大勝利で飾り、やがて、その原稿の筆を起こすのは、この沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと、ふと思った」
そして伸一は、沖縄の使命を訴えていった。
「かつて、尚泰久王(しょうたいきゅうおう)は、琉球(りゅうきゅう)を世界の架け橋とし、『万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘(かね)』を作り、首里城(しゅりじょう)の正殿に掛けた。
沖縄には平和の魂(たましい)がある。その平和の魂をもって、世界の懸け橋を築く先駆けとなっていくのが、 みんなの使命だよ」
「沖縄は広宣流布の”要石”(かなめいし)だ。 この美しき天地を、永遠の平和の要塞(ようさい)にしていこう。
仏法には三変土田(さんぺんどでん)という原理がある。
そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ。
やろうよ、力を合わせて」
 
沖縄本部が落成
3巻「仏法西還(せいかん)」の章では、「沖縄健児の歌」が誕生し、同志を鼓舞(こぶ)してきた様子が紹介されて いる。
4卷「青葉」の章では、伸一が10ヵ月ぶりに訪問し、沖縄総支部の結成大会が開かれる模様が描かれている。
6卷「若鷲(わかわし)」の章では、62 717日から3日間に及ぶ沖縄指導が認められている。
3度目となるこの訪問では、沖縄本部の落成式と幹部の任命式(18)が行われた。
任命式が終わると、伸一は沖縄本部の屋上に上がった。
そして、設置されていた演台に上がり、場外に集っていたメンバーに手を振り、語り掛けた。
「沖縄は、あの太平洋戦争で、 本土防衛(ほんどぼうえい)の捨て石にされ、多くの方々が犠牲(ぎせい)になられた。
しかし、創価学会広宣流布の戦いには、誰人たりとも、また、一人も犠牲はありません。
すべての人が、最後は必ず幸福になれるのが、日蓮大聖人の仏法です。楽しく、 
快(ゆかい)に、幸せを満喫しながら、この沖縄を楽土に転じていこぅではありませんか」
さらに伸一の指揮で「沖縄健児の歌」を合唱。友の喜びの歌声が、 沖縄の空に広がっていったのである。
 
輝きの舞台 沖縄本部
1962年(昭和37年)7月に落成した沖縄本部。池田先生が小説『人間革命』の執筆を開始したのが、この本部である。
小説『新・人間革命』では、沖縄本部で織り成された師弟のドラマが重ねてつづられている。
落成式で屋上に上がった山本伸一が、大鷲のように勇壮な指揮を執り、皆で「沖縄健児の歌」を熱唱した原点。
小説『人間革命』を執筆した64122日には、新しき時代のリーダーたる学生部員を励ました。
高等部員たちと共に勤行し、期待の言葉を贈ったことや、屋上での会員との記念撮影、集ってきた同志を包み达むように激励する様子も描かれている。
現在、この地には、沖縄国際平和会館が立ち、平和の波動を起こしている。​​​​​
 
執筆開始の朝
9卷「衆望」の章では、ついに伸一が、小説『人間革命』の執筆を開始する。
64121日、伸一は沖縄本部の広間での地区部長会に臨み、激励を送った。
2日の朝、伸一は、沖縄本部2階の和室で机に向かっていた。
目の前には、400字詰めの原稿用紙が置かれている。
ここで伸一は、恩師の伝記を執筆するに至った来し方を振り返る。
―「思えば、伸一が、戸田の生涯を書き残そうとの発想をもったのは、19歳の時であり、入会して1カ月が過ぎたころであった。
軍部政府の弾圧と戦い、投獄されても、なお信念を貫き、人民の救済に立ち上がつた戸田城聖という、傑出(けっしゅつ)した指導者を知った時の感動は、あまりにも大きかった。
伸一は、"わが生涯の師と定めた戸田先生のことを、広く社会に、 後世に、伝え抜いていかなくてはならない”と、深く深く決意していた。
その時の、炎のごとき思いは、 生命の限りを尽くして、師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓いとなっていくのである。
1951(昭和26)の春であった。
彼は戸田が妙悟空のぺンネームで、聖教新間に連載することになった、小説「人間革命』の原稿を見せられた時、”いつの日か、この続編ともいうべき戸田先生の伝記を、私が書かねばならない” と直感したのであった。
さらに、3年余りが過ぎた1954(昭和29年)の夏、戸田と一緒に、師の故郷の北海道、厚田村(あつたむら)を訪ねた折のことである。
伸一は、厚田港の防波堤に立って、断崖が屛風のごとく迫る、厚田の浜辺を見ながら、戸田の人生の旅立ちをうたった『厚田村 と題する詩をつくった。
その時、 自分が、”戸田先生の伝記を、必ず書き残すのだ”と、改めて心に誓ったのである。
それから2年後の8月、伸一は、 戸田とともに、軽井沢で思い出のひとときを過ごした。
師の逝去の8力月前のことである。
そこで、単行本として発刊されて間もない、戸田の小説『人間革命』が話題になった。
戸田は、照れたように笑いを浮かべて言った。
『牧口先生のことは書けても、 自分のことをから十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先にたってできないということだよ』
その師の言葉は、深く、強く、伸一の胸に突き刺さった。
戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき主人公の”巌さんが、獄中にあって、広宣流布のために生涯を捧げようと決意するところで終わっている。
それからあとの実践については、戸田は、何も書こうとはしなかった。
伸一は、この軽井沢での語らいのなかで、広宣流布に一人立った、
その後の戸田の歩みを、続『人間革命』として書きつづることこそ、師の期待であると確信したのである。
そして、1964(昭和19)4月の、戸田の7回忌法要の席で、いよいよ小説『人間革命』の執筆を開始することを、深い決意をもって発表したのである」
 
永遠にわたる絶対なる平和への誓いを込めて
最も辛酸をなめた天地で
さらに、伸一がなぜ、最初の原稿を沖縄で書き始めることを決めたのか、その理由が述べられていく。
「―『人間革命』は、戸田を中心とした、創価学会広宣流布の歩みをつづる小説となるが、それは、最も根源的な、人類の幸福と平和を建設しゆく物語である。
そして、そのテーマは、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて国の宿命の転換をも成し 遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にすることである。」
ならば、最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた天地で、その『人間革命』の最初の原稿を書こうと決め、伸一は、沖縄の地を選んだのである」
2次大戦中、悲惨な地上戦が行われた悲劇の島。戦後もアメリ力の施政権下に置かれ、基地の島となってきた。
中距離弾道ミサイルのメースB基地も設けられ、原子力潜水艦の補給基地としても重要視されていた。
苦しみが続いていた、この沖縄の地から、伸一は幸福と平和の波を広げようと決めたのだ。
池田先生は、「随筆 新・人間革命」にも、沖縄で小説を書き始めた思いをつづっている。
「沖縄は、卑劣(ひれつ)にして愚昧(ぐまい)な指導者たちの策略(さつりゃく)の犠牲となった。
沖縄ほど、平和また平和を悲願してきながら、その正反対の血涙(けつるい)を流し続けてきた、悲劇の歴史の歩みを刻んだ地はないだろう。
ゆえに私は、永遠にわたる絶対なる平和への誓いを込めて、心から愛する沖縄の天地で、小説『人間革命』の執筆を開始した」
9巻「衆望」では引き続き、 伸一が冒頭の一節を紡(つむ)ぎ出していく様子が書かれている。彼は、沖縄初訪問の際に、「ひめゆりの塔 や「健児之塔」など、南部戦跡を視察したことを思い起こし、思索をさらに深めていく。
そして、ペンを走らせた。
「戦争ほど、残酷なものはない。 戦争ほど、悲惨なものはない。 だが、その戦争はまだ、つづいていた…」
この冒頭の一節に衝撃を受けた読者は多い。沖縄のある友は、当時の置かれた状況と重ね合わせ、 ”まるで沖縄のことではないか”と感じた。
小説『人間革命』は、冒頭から、 過去の史実をもとに、同時代性をも帯びた筆致で認められていく。
それは小説『新・人間革命』もまた同様である。
池田先生は、恩師の伝記、また、 自身の世界広布への闘争を、「小説」の形をもって残していく。
それにより、取り上げる出来事が過去のものでありながら連載時にも通じ、また未来にも伝えていく精神を訴えることができる。
山本伸一の指導が、まるで自身に言われているように感じた読者は数知れないだろう。
伸一の關争が、現在の自身の”模範”となり、勝利を開くことができた同志も、それこそ無数であろう。
小説『新・人間革命』第9巻「衆望」の章では、沖縄本部長の高見に、小説の執筆を開始したことを告げた伸一が、真情を述べていく。
「沖縄の皆さんは宿命に泣き、苦労に苦労を重ねてこられた。私は、その沖縄の宿命を転換したい。 必ず、勝ってほしいんだ」
沖縄に対する広布の師の思いは、 どこまでも深い。​
 
沖縄への指導
楽土建設のために一人立て
真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの、一 念にこそかかっている。
人間が、絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避(げんじつとうひ)に走れば、社会は退廃(たいはい)する。
楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっているのだ。
楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、 平和のため、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ。
何があっても、絶対に屈することのない、強き信念と希望の哲学をもつことだ。複雑な現実の迷路を切り
開く、聡明な知恵を慟かせることだ。そして、その源泉こそが、日蓮大聖人の仏法なのである。『第13卷「楽土」)