第1回 沖縄 (下)

1回 沖縄 (下)人間の交流こそ 平和建設の重要な基盤となる
 
10卷「桂冠」の章では、東京で行われた教学部の教授、教授補の試験に駆けつけた伸一が、沖縄から受験に来た、目の不自由な壮年を激励する感動的なシーンがある。
13卷「楽土」の章では、19692月の沖縄訪問の模様がつづられている。
215日に行われた、班長、班担当員など6,000人との記念撮影会の場面では、”山本会長に一目会いたい”と集っていた、参加対象ではなかったアメリカ人メンバーなどを励ます様子が記されている。
ここで池田先生は、「マーシー地区」のメンバーの奮闘を通し、仏法の人間主義の思想を示している。
マーシー地区は、主に基地関係のアメリカ人で構成される。
メンバーは皆、戦争という忌まわしい重荷を背負っていた。ゆえに、誰よりも平和を熱願していた。
「真実の平和とは何か」「人間は、いかに生きるべきか」といった問題を真剣に考え、その解答を求めて、信心をする人も少なくなかった。
マーシー地区は、仏法の人間主義の哲学を掲げ、住民と米軍兵士の間にも、友情の橋を懸けていくのである。
その様子が、こう記されている。
「米軍の兵士だからといって、 憎悪(ぞうお)するようなことはなかった。
学会員は、会合などで米軍のメンバーと交流する機会が多かったからである。
そのなかで、彼らの人柄も知ることができた。
また、彼らが、出撃命令に苦しみながら、平和を願い、健気に信心に励んでいることも、よくわかっていた。
兵士であるメンバーが”戦場に行かなくてすむように””行っても、無事に帰って来るように”と、 題目を送る人もいた。
兵士といっても、一人ひとりは気のいいジョニーであり、剽軽(ひょうきん)なトムであり、親思いのマィクであるというのが、学会員の実感であつた。
メンバーの兵士と接触していた学会員の住民たちの目には、拙象化された”米軍”ではなく、『個』としての人間の実像が映っていたのだ。
一方、米軍の兵士のメンバーも、 住民である学会員との触れ合いのなかで、日本人への理解を深め、 信頼を育んでいったのである。
まさに、住民と米軍という対立を超えて、学会員は、互いに友情 の絆に結ばれていたのだ。
分断は、不信と反目を深めていく。
なんでもないことのようだが、こうした人間と人間の交流こそが、平和建設の重要な基盤にほかならない」 (13卷「楽土」)
さらに「楽土」の章では、芸術祭や大学会の結成式、高等部への渾身の指導が認められている。
また、名護総支部の岸山夫妻の壮絶な体験を通し、「宿命」とは「使命」であるという、日蓮仏法の希望の哲学を訴えていく。
続いて、名護やコザ市(現在の沖縄市)での激励行、沖縄本部にやって来た国頭の同志への励ましの場面がつづられる。
師を求める弟子の純粋な心が、全てのシーンにあふれている。
 
輝きの舞台 名護港
13巻「楽土」の章には、 69217日、恩納村の「伊武部(いんぶ)ビーチ」で山本伸一たちが観光船に乗った後、舵の故障で引返すことができなくなり、急遽、名護港に到着する様子が書かれている。
予定にはなかったが、伸一の名護訪問を祈り、「山本先生は必ず来てくださる」と信じて疑わなかった同志は、“断幕を準備し、皆で待っていた。
伸一が名護に向かっている知らせを受けると、喜び勇んで波止場に。そして、伸一との感動の出会いが生まれたのである。
その後、名護湾は、72年に埋め立てが始まり、漁港や公園等の整備が行われた。かつての師弟の出会いの場は、現在、名護市の主要地域として発展している。
 
反戦出版に先駆
14卷「智勇」では、698月、男子学生部の夏期講習会に参加していた沖縄学生部を、伸一が激励する。
10卷「人魂」では、721月、コザ市や那期市での記念撮影会、沖縄文化祭、名護訪問等が紹介された。
19卷「虹の舞」では、本土復帰後、初となる沖縄訪問(74)の模様が展開されていく。
この訪問は、沖縄広布20周年の佳節。 宮古八重山を初訪問し、地域に信頼を広げる伸一の振る舞いが描かれている。
石垣島宮古島では、記念撮影会等とあわせて、地域に開かれた市民の祭りや集い、全国初の図書贈呈、先祖代々追善法要などが行われ、地域貢献の道が開かれていった。
地元の名士や友人たちは、 伸一の言葉や振る舞いを通し、学会の真実の姿を見たのであった。
同巻「宝塔」の章では、伸一の言葉を受け、沖縄青年部が反戦出版に先駆する奮關が取り上げられている。
沖縄青年部は、沖縄戦の体験記の発刊を目指し、「戦争を知らない子供達へ」と題した連載を、聖教新間沖縄版へ掲載することを決め、取材を進めた。
しかし、つらい記憶を思い返し、皆、涙ぐみ、 口をつぐんでしまう。
青年たちは、 誠実に、粘り強く、平和への思いを語り、何とか戦争体験を聞き出していく。そうして集められた証言は、どれも戦争の暗部をえぐり出していた。
この連載は一冊の本としてまとめられた。タィトルは『打ち砕かれしうるま島』(第三文明社)沖縄戦終結から29年後の74623日に、「創価学会青年部反戦出版委員会」による「戦争を知らない世代へ」の第1弾として発刊された。
青年たちの反戦平和への熱き血潮と、戦争体験による涙の証言の結晶である、この本の反響は大きく、地元紙でも大きく取り上げられた。
この一冊が、各県の青年部による反戦出版の突破口を開いていく 
また、沖縄では、この反戦出版以降も、平和運動に全力を注ぎ、沖縄研修道場をはじめ、各地で 沖縄戦の絵」展を開催。内外の多くの人々が訪れることになる。
さらに「宝塔」の章では、伸一が、高見福安(たかみふくやす)と盛山光洋(もりやまみつひろ)に、宿命転換、地涌の菩薩について語る。
 
私は、沖縄が自ら行動を起こしたことが嬉しい
学会本部での支部長会
28巻「勝利島」では、7810月7日、第1回となる離島本部(後の勝利島部)の総会に先立ち、学会本部の師弟会館で開催された第1回「沖縄支部長会」に言及している。
この沖縄支部長会を本部で開催するに至った、沖縄首脳幹部の話し合いでの、高見福安の言葉を紹介する。
 れまで7回、伸一が沖縄を訪問していたが、ここ4年以上、沖縄指導は実現していなかった。
 8度目の訪問をお願いすべきは?”との幹部の意見を受け、高見が語っていくシーンである。
「私は、考えた。”先生にお出でいただきたいと言って、ただ、お待ちしているという姿勢でいいのだろうか”と。”違う!”と思った。
先生が、7度も来島されたということは、どこよりも、沖縄を大切にしてくださったからだ。
しかし、私たちは、いつの間にか、 それを、当然のことのように思い、 先生に甘えてしまっていたのではないだろうか。
世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。
どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。
アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、10日、20日と休みをとってやって来ると聞いている。
その求道の心こそが、信心ではないだろうか弟子の道ではないだろうか!」
そして、学会本部に勇み集ってきた沖縄の同志を、伸一がたたえていく。
「私は、沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。
誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、 幸福を創造していくことはできない。
そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになつてしまう。
実は、そこに不幸の要因があるんです。
仏法は、人を頼むのではなく、 ”自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ”という自立の哲学なんです。
自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!
いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第2章が始まったということです。
私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです。おめでとう!」
 
沖縄を幸福島に!そのために私は戦おう
永遠の平和へ立ち上がれ​
30巻の最終章「誓願」では、 92(平成4)225日からの 3日間、恩納村の沖縄研修道場で、アジア各国.地域の代表が参加して行われた第1回アジア総会に光が当てられている。
池田先生はここで、あらためて沖縄への思いを書き残した。
「伸一は、沖縄に思いを馳せるたびに、国土の宿命転換と立正安国の実現の必要性を痛感してきた。
彼が第3代会長就任から2カ月半後の、1960(昭和35)716日に沖縄を初訪問したのも、この日は、日蓮大聖人が 立正安国論』を提出された日であったからだ。
沖縄の同志が、立正安国の先駆けとなる永遠の平和繁栄の楽土建設へ、立ち上がってほしかったのである。
初の沖縄訪問の折、伸一は、南部戦跡も見て回った。
同志たちから、悲惨な戦争体験も聞いた。
胸が張り裂ける思いであった。そして、”この沖縄を幸福島に!広宣流布の勝利島に!そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
仏法の法理に照らせば、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利がある。
64(39)122日、彼が『戦争ほど、残酷なものはない。
戦争ほど、悲惨なものはない…』との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった」
今、沖縄の同志は、この広布の師の期待を全身で受け止め、師の心をわが心とし、愛する「うるま島」のため、地域を駆け巡っている。
それが、師と約束した、沖縄健児の生き方であるからだ。
それが、師に誓った、真正の弟子の道であるからだ。
 
輝きの舞台 沖縄研修道場
沖縄本島の中央部に位置する恩納村。青くきらめく東シナ海を望む地に、沖縄研修道場がある。
「『花』がある。『海』が広がる。 『光』があふれる。
沖縄研修道場 は、『春爛漫』である」(第30 下「誓願」)山本伸一の言葉が表しているように、美し い自然が来場者を笑顔にしてくれる。
かつては米軍のメースBミサイルの発射基地だった。
開設にあたり撤去する予定であったが、池田先生が残すことを提案。恒久平和を誓う「世界平和の」に生まれ変わった。
敷地内には、沖縄池田平和記念館付属展示室や香峯子蘭園が併設されている。77年の誕生以来、 訪れる人々に、平和の心を送り続けている。
 
沖縄への指導​
弟子が勝利の実証を
「今回、沖縄には各島などの中心者も誕生し、幹部室員の制度もでき、全国に先駆けて高校会も発足しました。
また、さまざまな催しを通し、地域の人びとの学会への理解の輪も大きく広がりました。
いわば、沖縄が、広宣流布の大空に、本的に飛翔する条件は、 すべて整った。その操縦桿を握るのは皆さんです。
したがって、人を頼るのではなく、皆さんが会長の私と同じ決意、同じ自覚に立ち、 全責任をもつて活動を推進していかなければならない。
つまり、新しき時代とは『弟子が立つ時』であり、弟子が勝利の実証を示す時代なんです」
「沖縄は、本土に復帰したとはいえ、その前途は決して平坦ではないでしょう。基地の問題もあります。経済的にも多くの課題を抱えています。
しかし、どんなに闇が深かろうが、嵐が吹き荒れようが、心に虹をいだいて、晴れやかに、威風堂々と前進していっていただきたい。
虹とは、『希望』であり、『理想』であり、『大志』です。その源泉が『信心』なんです。
最も戦争の辛酸をなめた沖縄には、世界の平和の発信地となり、 恒久平和を実現していく使命がある。そのために、ここにいる皆さんが、宿命を使命に転じて、一人立つんです。一切は、自身の一念の転換、人間革命から始まります」(19卷「虹の舞」)
 
​​沖縄への指導​​
真心で励ますのが幹部
「私が、本日、強調しておきたいことの一つは、幹部になったからといつて、権威主義になり、後輩に威張(いば)りちらすようなことがあっては、絶対にならないということであります。
どこまでも誠実に、真心をもって励ましていくのが幹部です。
仏子である会員に仕え、奉仕していくのが幹部です。また、皆に、安心を与えていけるかどうかです。
会員を自分の手下のように思って見下したり、あるいは怒鳴(どな)ったりして、人に緊張を与えるのは、権力主義者です。
あの人の前に行くと、心から安心できる、元気になれる、希望を感じる、勇気が湧いてくる ――と言われてこそ、本当の学会の幹部といえます。
また、皆が仲よく、互いに尊敬し合って、団結していくことが、広宣流布を前進させていく力になる。
反対に同志を恨(うら)んだり、憎(にく)んだり、軽(かろ)んじたり、嫉妬(しっと)するようなことは、絶対にあってはならない。
それは大謗法(だいほうぼう)になる。
自分も罰を受けるし、組織を歪んだものにし、広宣流布を破壊(はかい)していくことになります。
では、どうすれば、同志の団結が図(はま)れるのか。
根本は祈りです。題目を唱え抜いていくことです。いやだな、 苦手だなと思う人がいたら、その人のことを、真剣に祈っていくんです。
いがみ合ったり、争い合うということは、互いの境涯が低いからです。
相手の幸福を祈っていくことが、自分の境涯を大きく開いていくことになる。
また、誤解(ごかい)から、感情の行き違いを生むことも多いから、心を開いて、よく話し合うことです。勇気をもって、対話することです。
互いの根本の目的が、本当に、 広宣流布のためであるならば、 信心をしている人同士が、共鳴できないはずはありません」
一人ひとりは、どんなに力があっても、仲が悪ければ、全体として力を発揮することはできない。
逆に仲のよい組織というのは、 それぞれが、もてる力の、2倍、3倍の力を発揮(はっき)しているものである。
伸一は、沖縄は、幸福の春風をアジアへと送る、東洋広布の”要石”であると考えていた。
それゆえに、この沖縄の天地に、 堅固(けんこ)なる信仰の、団結の要塞を築き上げたかったのである。 (9卷「衆望」)​​​​​​​
 
​☆ 寄稿  沖縄を「世界平和の発信地」に 沖縄総県長 安田進さん
沖縄は、最も戦争の辛酸をなめてきた地である。
池田先生は小説『新・人間革命』のなかで、何度もそのことに触れてくださっている。
その上で、 "沖縄には、真の楽土を建設しゆく深い使命が
ある、と教えてくださっている。
そして、立正安国の実現は”人の宿命転換から始まる、一人の人間革命から始まる”と、重ねて指導されている。
私は、先生の筆致に触れ、学ぶたび、思う。
広布の師は、沖縄の私たちに、創価学会の哲学の柱ともいうべき「”宿命→使命”  論」、さらには「真の恒久平和論」を教え、未来にわたる深い使命を指し示してくださっているのではないか、と。
そして沖縄こそ世界平和の発信地たれ,と、弟子に呼び掛けてくださっているのだ、と。
印象的な場面が描かれている。
30卷下「誓願」の章で、かつて米軍のメースB基地だった沖縄研修道場の開設に当たり、撤去予定だったミサイルの発射台を残すことを、山本伸一が提案するシーンである。
「人類が愚かな戦争に明け暮れていた歴史の証拠として残してはどうだろうか。そして、この研修道場を世界の平和の象徴にしていこう!」
そして、研修道場は整備され、 発射台の上に6体の青年像が設置されていく。
これは、ヨーロッパの歴史建造物等を参考に設置されたのだが、台風被害の多い沖縄にとって、建物の上に像を置くとの発想は、いわば"奇抜”であった。
かつて戦争で苦しんだ沖縄から、 世界へ向けて平和の心を「発信」 していく――その象徴に思えてならない。
誓願」の章では、同研修道場で開催されたアジア総会の様子がつづられている。
15ヵ国、地域の同志が集っての総会。当時、私は県の男子部書記長として、全体の演出を行った。
先生の振る舞いや指導を通し、アジア広布、そして世界広布の到来を感じた総会であった。
この総会を通し、先生は認めてくださった。
「沖縄には、『命どう宝』(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、『いちゃりば兄弟』〔一度出会えば、兄弟)という、 開かれた友情の気風がみなぎっている」(30卷下「誓願)
沖縄には、世界の人々と「仲良く」なれる素養がある。
異体同心の要になれる心がある。
そう信じてくださったがゆえに、沖縄でのアジア総会の開催だったのだと、今さらながらに胸を熱くする。
沖縄の心は、学会精神に通じる。
私たちは自覚と誇りと使命感をいだき、沖縄から世界平和に通じる戦いを展開する地涌の菩薩として、 これからも対話を重ねていく。
 
​☆ 寄稿​   主体者だからこそ歓喜がわく   沖縄総県婦人部長 照屋清子(てるやすがこ)さん
球子は戦った。沖縄中を動きに動いた。
尊い広宣流布の使命を果たすために、足が鉄板になるほど動こうというのが、彼女の決意であり、 信念であった」(第16卷「入魂」沖縄広布の草創の婦人部リーダーの姿と心意気を、池田先生はこうつづってくださいました。
人の友を励ますために歩き回り、真心を込めて語っていく―― この沖縄の伝統を受け継ぎ、後継の人材を育て、未来を開いていくのが、私たちの戦いです。
先生はこれまで17回、沖縄を訪問してくださっています。
その11回、11日が、"10回分""10