戸田城聖第二代会長

石川県の漁港に生まれ、幼児、北海道厚田村に移住する。すべて、彼の意志ではない。何か大きな力に導かれてのことであったのかもしれない。

 厚田の厳しい自然の中で自立の心を培い、雪に閉ざされた海辺の村から、都会への飛翔を考えた少年時代…。

 彼は、憧れの都会であった札幌の商店に、いわゆる丁稚奉公に入り、働きながら、暇をぬすむようにして独学を重ね、小学校の准教員の資格を取得する。資格は職を与え、夕張炭坑の真谷地の小学校に奉職したが、向学の思いやみがたく、臥龍(がりょう)は、突如、職を辞して、東京に飛び立った。

 東京で同郷の人びとをたどっていくうちに、小学校の校長をしていた牧口常三郎に出会った。この邂逅(かいこう)によって、彼は生涯の師弟の絆を結び合うことになる。ここに、創価の光源をともした牧口と戸田という、二人の巨人の二人三脚が始まるのである。

 戸田城聖は、西町小学校の校長をしていた牧口常三郎が左遷されたことに義憤を感じ、牧口と行動をともにした。やがて、戸田は教職を去って、時習学館という私塾を経営し、傍ら出版業を始める。そして、教育者としての牧口の思想の集大成となる教育学体系の完成のための援助を決意する。

 昭和三年、牧口と戸田は日蓮正宗に入信した。牧口の教育学の根幹をなす価値論は、日蓮大聖人の仏法の光彩を浴びて結実し、『創価教育学体系』の発刊となり、昭和五年、創価教育学会という団体を生んだ。

 創価教育学会の、教育を基盤とした社会の革命運動は、必然的に、根本義たる宗教にいたり、いつか斬新な宗教運動となっていった。そのため、軍部政府の過酷な弾圧にさらされねばならなかったが、二人の師弟の絆は牢獄にまで及んだ。

 昭和十八年七月六日、二人は逮捕・投獄され、翌十九年十一月十八日、牧口常三郎は獄死する――戸田は独房で呻吟のなかに唱題を重ね、「法華経」への眼を開き、不可思議な境地を会得し、地涌の菩薩の使命を自覚するにいたったのである。

 出獄、そして、敗戦。戸田城聖は時来たれり――と、広宣流布に一人立った。敗戦後の激動のなかで、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲げて、不幸に苦しむ同胞の救済に挺身していった。

 かつての創価教育学会が壊滅したのは、教学という柱がなかったからであることを痛感していた彼は、牢獄で唱題のなかに会得した「法華経」の講義を開始した。さらに、戦後の荒廃のなかで、苦悩にあえぐ民衆の蘇生のために、一人、また一人と折伏を重ねていった。それがやっと軌道に乗るかと思われた時、彼の事業は大挫折をきたした。すべては水泡に帰したかに見えたが、彼は大いなる信力を奮い起こして大難を脱した。

 わが身にかかる広宣流布のいっさいの責任を自覚した彼は、昭和二十六年五月三日、三千名の会員に推されて会長に就任した。

 以来、六年七ヶ月の慌ただしい歳月のうちに七十五万世帯の達成をみた。

 これこそ、日蓮大聖人の仏法の歴史上、類を見ない壮挙であり、これによって広宣流布という大業は、決して虚妄ではないことが証明されたのである。人類は、ついに、崩れざる平和と幸福への確実な方途をつかんだといってよい。

 そして、戸田城聖は、昭和三十三年四月二日午後六時三十分、医師の診察を終えた直後、妻に見守られて、眠るように息を引き取ったのである。急性心衰弱によるものであった。不世出の広宣流布の大指導者戸田城聖は、ここに五十八歳の生涯を閉じたのであった。



人間革命第12巻 憂愁、寂光