牧口常三郎初代会長

1871~1944。創価学会初代会長。新潟県の荒浜に生まれ、小学校卒業後、十四歳のころ単身北海道に渡り、苦労して北海道尋常師範学校(現北海道教育大)に編入。卒業後、同附属小学校および師範学校で教壇に立つかたわら、地理学の研究・執筆を続けた。三十歳の時、上京。三十二歳で人間と自然との深い関係性を究明した「人生地理学」を発刊、ベストセラーとなり地理学界に大きな波紋を呼んだ。柳田国男氏らと共にさらに郷土研究に取り組む一方、再び教職につき、富士見、東盛、大正小学校等の訓導(教員)、校長を歴任。

 大正九年西町尋常小学校長の時、北海道より上京した戸田甚一に会う。その後、地元実力者の圧力により三笠尋常小学校長に左遷されると、続いて戸田も転任し、悪条件の中で多大な教育成果をあげた。その実績によって白金尋常小学校長に栄転。少し遅れて戸田は教壇を離れ、時習学館を開設した。昭和三年、教育者三谷素啓氏の折伏日蓮正宗に入信し、次いで戸田を折伏。以後、仏法により堅く結ばれた絆は生涯崩れることはなかった。

 同五年、教育革命の一大宣言書ともいうべき「創価教育学体系」(その中で「利・善・美」という新しい価値論をたてている)発刊。それを機に、創価教育学会の歩みが開始された。当初の目的は教育の抜本的変革であったが、信仰の深化とともに、仏法根底の活発な思想運動の展開へと移っていった。十四年十二月、事実上の第一回総会を開き、十五年には牧口会長、戸田理事長以下の組織を一段と拡充、十六年には機関誌「価値創造」を発刊、会員数は三千に達した。

 このころから軍部政府の弾圧が露骨となり、十八年夏、治安維持法違反・不敬罪の名目により伊豆で逮捕。戸田理事長以下二十名の幹部も次々に逮捕された。老齢にもかかわらず、戸田とともに最後まで屈しなかったが、厳しい獄中生活はその体をむしばみ、遂に十九年十一月十八日、老衰と栄養失調のため逝去。享年七十四歳。





創価教育学会



 創価学会の前身。昭和五年十一月十八日「創価教育学体系」の発刊を機に、牧口常三郎戸田城聖によって、その歩みを開始。当初は牧口の教育論の研究・実践が主目的であったが、やがて、民衆一人一人の生活自体の変革を目指して、日蓮大聖人の仏法の布教・折伏の本格的実践活動に入る。仏法を根底に「価値論」を民衆の生活指導原理として普遍化し、「大善生活実験証明座談会」と称して赤裸々な対話を重ね、活発な折伏を展開。年一回の夏期修養会(後の夏期講習会)は、学会発展の原動力となった。十五年には本部を設置、会長、理事長以下の組織も一段と拡充。十六年、機関誌「価値創造」を発刊、会員三千名に達す。この間、牧口会長は高齢もかえりみず全国の会員の激励・指導、折伏に東奔西走し、戸田理事長は、学会の経済基盤確立のため幅広く事業を手がけ、陰で牧口会長を支えた。

 活動が軌道に乗り始めたころ、軍部政府の戦争政策・思想統制に鋭い批判を展開していた「価値創造」の廃刊指示(十七年五月)をきっかけに、国家権力の弾圧の嵐が襲った。しかし、それをものともせず、さらに戦争に反対し、信教の自由を守る活動を展開したため、十八年七月、牧口会長および、戸田理事長以下二十名の幹部が逮捕。牧口、戸田を除いてほとんどの幹部が退転状態となったため、最盛期には五千人を数えた学会も、事実上四散し、活動停止に陥った。十九年、牧口会長獄死。二十年七月に戸田理事長が焦土に再建の第一歩をしるすまで、この状態が続いた