日蓮大聖人の御生涯 (2)

(五)  佐渡流罪

  幕府では竜の口での処刑に失敗してから大聖人への処置が定まらず、約1カ月間、
大聖人を相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門(佐渡国守護代)の館に留め置きました。     
  結局、佐渡流罪の処分が最終的に決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原という墓地に建てられた荒れ果てた三昧堂に入りました。そこでは、厳寒の気候に加えて、衣食も乏しく、佐渡の念仏者からは命も狙われるという状態でした。
  翌、文永9年(1272年)1月16日には、佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく
論破されました(塚原問答)。
 また、2月には北条一門内部の同士打ちが起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました
(二月騒動)。大聖人が竜の□の法難の時に予言された自界叛逆難が、わずか150日後に現実になったのです。
 その年の初夏、大聖人の配所は、塚原から一谷に移されましたが、念仏者たちに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。
 こうしたなか、日興上人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、大聖人に帰依する人々が現れてきました。
  また、大聖人は佐渡で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が開目抄と観心本尊抄です。
 文永9年2月に著された開目抄は、日蓮大聖人こそが主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされているところから、「人本尊開顕の書」といわれます。
 また文永10年(1273年)4月に著された観心本尊抄は、末法衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、「法本尊開顕の書」といわれます。
 文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行っている幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて年内に必ず蒙古が襲来すると予言されました。この予言のとおり、同年10月に蒙古の大軍が九州を襲ったのです(文永の役)。
 これで自界叛逆難・他国侵逼難の二難の予言が的中したことになりました。

(六)  身延入山

  佐渡流罪後の諌暁も幕府が用いなかったため、日蓮大聖人は甲斐国(現在の山梨県)波木井郷の身延山に入ることを決意されました。身延の地は、日興上人の教化によって大聖人の門下となった波木井六郎実長が、地頭として治めていました。
  大聖人は、文永11年(1274年)5月17日に身延の波木井実長の館に着き、6月17日
身延山中に質素な庵室を結んで住まわれました。しかし、大聖人の身延入山は、決して単なる隠棲ではありませんでした。
  身延において大聖人は数多くの御書を執筆されて、大聖人の仏法の人類史的な意義を説き示されただけではなく、法華経の講義などを通して未来の広布を担う人材の育成に全力を注いだのです。また、多くの御消息文(お手紙)を書かれ、在家信徒一人ひとりの信心を激励し、各人が人生の勝利を得られるよう指導を続けられました。

(七)  熱原の法難と大御本尊御建立

  日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(現在の静岡県)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて大聖人に帰依するようになりました。
 そのために、旧来の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した農民信徒を脅迫する事件が起こりました。
 弘安2年(1279年)9月21日、熱原の農民信徒20入が無実の罪で逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は侍所の所司・平左衛門尉の私邸で厳しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。の兄弟が処刑され、残りの17人は追放されま した(10月15日、一説には翌年4月8日)。  これが「熱原の法難」です。
  農民信徒たちの不惜身命の姿に、大聖人は、大難に耐える強き信心が、民衆次元に定着したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事で「出世の本懐」を遂げる
時がきたことを宣言されました。
そして、その宣言の通り、弘安2年10月12日に一閻浮提総与(全世界の人々に授与するとの意)の大御本尊を建立されたのです。
  「出世の本懐」とは仏がこの世に出現した目的という意味で、大聖人が末法の世に出現されたのは、末法万年の一切衆生を救うという仏の大願を実現するためにほかなりません。
  熱原の法難における、民衆の強き信心に呼応して御図顕された弘安2年の大御本尊は、全民衆救済という日蓮大聖人の大願を込めて、広宣流布のために顕されたのです。

(八) 日興上人への付嘱と御入滅

 弘安4年(1281年)11月、身延に十間四面の大坊が完成し、久遠寺と名づけられました。弘安5年(1282年)9月、大聖人は大聖人御一代に説き弘められた法門のすべてと、一閻浮提総与の大御本尊を日興上人 に付嘱し、広宣流布の使命と責任を託されました。身延において行われたこの付嘱を「身延相承」といいます(付嘱内容から「一期弘法付嘱」ともいう)。
  これに対して、後に10月に池上で行われた付嘱を「池上相承」といいます(後述の付嘱内容から「身延山付嘱」ともいう)。また、この二つを総称して「二箇相承」といいます。
  9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(現在の茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くため、9年間住まわれた身延山を発ちました。そして、武蔵国(現在の東京都)の池上宗仲の屋敷に滞在し、後事について明確に定められたのです。
  9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されました。これが、大聖人の最後の説法となりました。
  10月8日に日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人(順序は入門順)を選んで 「本弟子」と定めました。これを「六老僧」ともいいます。
  「六老僧」を選ばれたのは、大聖人亡き後に各地に散在する門下の中心として、それぞれの縁故や地域を掌握するためであり、法の付嘱を6人にされたのではありません。
 「六老僧」のなかでも、日興上人が信行学において最も優れておられました。大聖人の伊豆・佐渡の2度の流罪にもお供して常随給仕されており、折伏・弘教や門下の育成においても群を抜いておられました。大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、大聖人の仏法の深義を正しく信解されていた日興上人が、付嘱を受けられたのは当然であったのです。
  10月13日、大聖人は御入滅に先立って再び日興上人へ付嘱され、日興上人を身延山久遠寺別当(住職)と定められました。これが池上相承です。そして同日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。