勤行について

 「勤行」は、日々の生活のリズムの根幹であり、幸福の源泉です。

 それでは、「勤行」とはどういうことをするのか――それは毎晩、御本尊に向かい、法華経の方便品と寿量品を読み、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることです。

 日寛上人は勤行の功徳について「我等此の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(この御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えていくならば、私たち自身の生命に一念三千の御本尊があらわれ、御本仏・日蓮大聖人と同じ智慧と力があらわれる「観心本尊抄文段」)と述べています。

 御本尊は、宇宙の根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された御本仏・日蓮大聖人の御生命をあらわされたものといえます。その御本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくとき、御本尊に共鳴して、自身の生命に南無妙法蓮華経の当体があらわれ、本来、私たちのなかに内在している最高の仏界という生命がわきあらわれてくるのです。

 例えて言えば、音楽を聴いたり、絵画を見たりすることによって、それらに共鳴して、自身の心に豊かな感動の世界が広がっていきます。これは、外界の音楽や絵画に縁することによって自身の内なる感動の心が出てきたのです。

 同じように、勤行は御本尊と深く縁していくことによって、幸福の源泉である自身の胸中の仏の心と働きをあらわし出していく修行なのです。

 また勤行には「正行」「助行」があり、御書に「正行には唯(ただ)南無妙法蓮華経なり」(1367ページ)と仰せの通り、御本尊に題目を唱えること(唱題)が「正行」で、方便品と寿量品の読誦(どくじゅ)は「助行」です。助行とは、正行を助ける行という意味です。

 この正行と助行の関係について日寛上人は、「塩酢(えんそ)の米麺の味を助くるが如し」(六巻抄・当流行事抄)と述べています。つまり、米やソバ(=正行)を食べる時に、塩や酢(=助行)が調味料として使われ、米や麺の食味を助けるように、方便品と寿量品を読むのは、正行である唱題の功徳を、より一層大きくしていく意味があるのです。

 次に法華経には二十八の品(=章)がありますが、その中から、なぜ方便品と寿量品を読むのかということです。日蓮大聖人が「寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」(御書1202ページ)と仰せのように、法華経の「方便品第二」と「如来寿量品第十六」の二つの品こそ、法華経の中でも最も大事な法理が説かれてい
て、そのほかの品の意義も備わっているからなのです。

 また、題目や経文の意味が分からなくても、勤行の功徳は変わりません。

 例えば、外国語の意味が分からなくても、正しく発音すれば、外国語を理解している人には通じます。それと同じように「南無妙法蓮華経」の題目や、勤行で読誦している経文は、仏の世界に通じる“言葉”であると考えればよいでしょう。大切なのは御本尊を信じる心であり、賛嘆する心なのです。

○「青春対話」より

 真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほど素晴らしいか。全部、自分のためです。義務ではなく、自分の権利です。御本尊は決して、拝んでほしいなどと言われていない。こちらから、拝ませてくださいというのが信心です。やった分だけ、自分が得をする。ともかく窮屈に考える必要はない。仏法は人間を自由にするものであって、人間を縛るものではないの
です。

 少しずつでも、毎日することが大事です。毎日、ご飯を食べてエネルギーとなる。勉強も毎日、積み重ねることによって力となる。「毎日の生活が即人生」となる。だから「毎日の生活即向上」でなければならない。その推進力が勤行です。

 勤行という行に励むことは、毎日の「心のトレーニング」です。自分自身の生命を清浄にし、エンジンをかけ、軌道に乗せていくことです。心身ともに回転を促し、リズムを整えていくのです。

○1996-2-24 第97回本部幹部会

勤行をするのは“自分のため”である。 また自分の姿を見て、後輩もついてくる。子供も見習う。

 時間が無くて五座三座ができなければ、方便品・自我偈でもよい。題目を百編、二百編でもよい。何かやることである。ともかく、まず御本尊の前に座ることだ。

 大事なことは、朝晩、御本尊を拝そう、題目を上げようという「心」である、その「心」があれば福運は消えない。その心で「実践」すれば、福運はいや増していく。だれが見ていなくとも、御本尊が全部、見ておられる。

○人間革命第5巻 驀進 戸田先生指導

 御本尊の前で勤行するときは、日蓮大聖人の御前にいると同じことなのです。かりにも、だらしのない態度であってはならん。居眠りしたり、欠伸をしたりするような勤行では決してなりませぬ。私たち凡夫の、さまざまな日常の生活のなかで、もっとも厳粛で、またもっとも崇高な仏界の時が、この勤行のときです。御本仏日蓮大聖人様の御前で、居眠りや欠伸のできるものか、よく考えてもらいたい。

 そうかといって、形式のみにとらわれたり、コチコチになれというのではない。あくまでも無作でなければならんでしょう。御本尊様は無作三身如来で、主・師・親の三徳を備えてらっしゃる。嬉しければ、うれしいでいいし、辛ければつらいまま、そのままの姿で、純真に、真剣に御祈念申しあげればよいのです。心豊かに、朗々と唱題することです。純真無
垢な勤行が、御本尊様に通じないわけがない。

○勤行を短くできるか 人間革命第6巻 離陸 戸田先生質問会指導

 信心は仏道修行です。たとえていうと、剣道の道場に弟子入りしたと同じだ。師範から朝百回、夜五十回、毎日欠かさず素振りをやれば上達できると教えられたとする。

 ところが、掃除、雑巾がけ、その他の雑用があるので、朝は三十、夜はまた用事があるので、十遍くらいしか振れない。しかし、できないから仕方がないと諦めている人と、たとえ睡眠時間を短くしても、言われたとおりやろうとする人と、どちらが上達するか。今のあなたの質問は、これと同じことです。決意、忍耐づよさが大事なのです。

 勤行は、たとえ十五分でも、真剣勝負の意気でやれば、功徳はあります。あなたのように、ほんとうに仕事が忙しかったら、仕事の合い間をみて、また電車の中にいても、小さい声で勤行し、お題目を唱えなさい。ただし、奇異な感じを人に与えてはいけない。

 これは読誦の題目のうちの誦の題目といい、御本尊の前で勤行したのと同じことにもなるのです。そのようにして、真剣にやっていけば、自然のうちに、あなた自身が、朝はいつもより三十分早く起きて、勤行を完全にやろうという気が起きてくるはずです。

 それを、誦の題目とはいいことを聞いたと思って、普段の勤行を怠けてもよいと考えるようでは、功徳がないのは当然です。

○人間革命第12巻 池田先生 葛飾総ブロック結成大会での指導

 柔道にも、剣道にも、基本がありますが、幸せになるための信心の基本は勤行にあります。日々、真剣に勤行・唱題を重ねた人と、いい加減な人とでは、表面は同じように見えても、三年、五年、七年とたっていったときには、歴然たる開きが出てきます。宿業の転換といっても、人間革命といっても、そのいっさいの源泉は勤行・唱題にほかなりません。
ですから、日蓮大聖人は「深く信心を発(おこ)して日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを是をみがくとは云うなり」と仰せになっているのです。

 また、勤行の姿勢が、その人の生き方に表れます。弱々しい勤行の人は、生命力も乏しく、どうしても弱々しい生き方になっていくし、義務的な勤行であれば、信心の歓喜はなかなか得られません。お互いに、白馬が天空を駆けるような、リズム感あふれる、すがすがしい勤行をしていきましょう。そして、真剣な祈りを込め、大宇宙をも動かしゆくような、力強い、最高の勤行を、日々目指していこうではありませんか。

○蝋燭と線香 2001-11於インドネシア(北野副会長)

 人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬えば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし(食物三徳御書 P1598)

 人に物を施せば、それが却って我が身を助けることになる。例えば、人のために灯をともせば、その人の前を明るくすると同時に、自分の前も明るくなるようなものである。

 要は、形式ではなく、振る舞いである。感謝の心で御本尊に供養するという真心が大事である。また、妙法を弘める人を供養によって守ることは、妙法そのものを守り、弘めることに通じるので、その振る舞いが未来永遠にわたる大福運の因となることは言うまでもない。

 この道理は、線香(香りの供養)や財物を施すこと(財施)だけでなく、勤行・唱題(自行)と折伏(化他)の法の供養(法施)にも当てはまります。