五濁悪世 十四誹謗 十如是

五濁悪世 

貪・瞋・癡などの生命内奥の濁り(煩悩濁)

・今は、「五濁悪世」と聞きました。どういうことですか。

仏法では現実社会の病理をさまざまな視点から説いています。ご質問の「五濁悪世」も、人間と人間の住む国土・社会を、鋭い洞察から見事に説き明かしていますね。

「五つの濁りに満ちた、悪い世の中」ということで、「法華経」の方便品第二にはこうあります。 「諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁なり」 (法華経 P170)

・「五つの濁り」を詳しく教えてください。

 順不同になりますが、まず、

1.「煩悩濁」。私たちの生命に巣くう「貪り」「瞑り」「癡」などの煩悩を「濁り」です。

 「貪り」は、砂漠で水を求めるような、激しい欲望。その激しい欲望が叶えられないことから「瞑り」が噴出します。また 生命の法への無知が「癡」です。そのほかに、慢心(「慢」) や不信(「疑」) などがあります。

(私たちの心の濁り、生命の濁りですか) そういっていいでしょうね。

2.「見濁」は「思想の濁り」といえま す。「貪り」・「瞑り」・「癡」などは生まれつきそなわる、本能的な迷いです。

 思想が乱れ(見濁)

 寿命が縮み(命濁)

 資質が低下(衆生濁)

一方、「見濁」は後天的なもので、物の見方や判断が狂い、濁ってくるのです。社会的にいえば、「正しい生命の因果」を説かない、低い思想等がはびこることです。価値観や人生観の混乱等が見濁にあたりましよう。

3. 次に、「衆生濁」です。先にあげた「煩悩濁」と「見濁」の二つの濁りによって、「人間生命」そのものが衰え濁ることです。

 現代的にいえば、無気力・無関心・無責任など、人々の資質が低下することともいえます。

 4. 四つ目は「命濁」で、「寿命が縮む」ことです。

これは「生命力の低下」の顕れの端的な潮でしょう。

5. 最後は「劫濁」で、先の「四つの濁り」が長く続くことを指しています。

「時代・社会の濁り」ということです。

具体的には「飢饉・疫病等や戦争などが起こることを示す」(中村元)といえます。

「三災七難」などがまん延することです。

(不況・戦乱等の時代社会の相を露呈「劫濁」ー今、世界が騒然とし、「五濁悪世」そのものですね。)

本当にそうですね。悪国の為政者の思惑などで、一番大切な「民衆」が苦悩の底に追いやられることが、最大の不幸です。

(この「劫濁」を変えていくには、どうすればいいのでしょうか。)

仏法の明鏡に照らしてみれば、その根本は「険悪から戦乱が、貪欲から飢饉が、愚痴から疫病が起こる」(御書 P718、趣意) と鋭く洞察しています。さらにこの「三災(=劫淘)」が起こることによって、ますます貪瞑癡の「三毒」の煩悩(煩悩淘)が増す、とも記されています。

(悪循環ですね。)

ええ。また、「鬼神が乱れる故に、万民が乱れる」 (同 P718、趣意)とあるように、思想、価値観の混乱から、時代・社会が混乱に巻き込まれていきます。「見濁」から「劫濁」が引き起こされる。だからこそ、「劫濁」を変えるためには、なによりも「煩悩濁」・「見濁」から変えていくことが大切になるのです。「五濁悪世」そのものの今こそ、仏法の精神、創価学会の生命の尊厳と慈愛の精神を、世界精神へと高めていくしかありません。

池田SGI会長が先頭切って、あらゆる差異を超越して世界の有識者と、友好と友情の「対話」を交わしています。私たちもわが地域から、一人の人問革命から社会の変革ヘ、果敢に「友好対話」の拡大に挑戦しましょう。「日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり」 (同 P717)との御金言を銘記して。

十四誹謗

 松野殿御返事に「悪の因に十四あり、一に慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり。此の十四誹謗は在家出家に至るべし」とあります。(P1382)

1.嬌慢(きょうまん) 増上慢と同意。慢心、奢りたかぶって仏法をあなどること。

 2.懈怠(けたい) 仏道修行を怠けること。

 3.計我(けいが)  我見と同意。自分勝手な考え方で、仏法の教えを判断すること。

 4.浅識(せんしき)  仏法の道理が分からないのに、求めようとしないこと。

 5.著欲(じゃくよく) 欲望にとらわれられて、仏法を求めないこと。

 6.不解(ふげ)   仏法の教えを分かろうとしないこと。

 7.不信(ふしん)  仏法を信じないこと。

 8.顰蹙(ひんしゅく) 顔をしかめること。仏法を非難すること。

 9.疑惑(ぎわく)   仏法の教えを疑って、迷うこと。

10.誹謗(ひぼう)  仏法をそしり、悪口を言うこと。

11.軽善(けいぜん)  仏法を信じている人を軽蔑し、馬鹿にすること。

12.憎善(ぞうぜん)  仏法を信じている人を憎むこと。

13.嫉善(しつぜん) 仏法の信者を怨嫉すること。和合僧を破る働きをすること。

14.恨善(こんぜん) 仏法を修行する人を恨むこと。

 以上の十四の誹謗のうち、特に一から十までは主として信心をしていない人の謗法であり、終わりの四つは信心している人の謗法であります。

 しかし、これら十四の誹謗は在家・出家にわたり、どんな人も具している邪悪な生命の現れですが、十四の誹謗を努めて起こさない事が必要です。どんなに優れた修行をしても謗法を犯すことによってすべての福運を帳消しにしてしまいます。念仏無間地獄抄には、「譬喩品の十四誹謗も不信を以って体と為せり」(P97)とあるように、十四誹謗を犯す人は
所詮、信心していないのと同じことになり、いかに仏道修行をしても、功徳や福運を得られよう筈がないと厳しく仰せです。

十如是

如是相―外面の姿であり、物質・肉体です。例えば、臨終の時に色が黒くなるのは地獄界の相であり、色が白くなるのは天界の相を示す等が如是相です。

如是性―内面の性質であり、精神・心・智慧といえます。十界の善悪の性質が生命それ自体に本源的にそなわっており、永久不変であることをいいます。

如是体―肉体にもあらず、精神にもあらず、しかも肉体・精神にはっきりと、滲みでている実体、すなわち生命それ自体です。十界の身体色質とは十界の生命それ自体のことをいいます。

如是力―内在している能力であり、十界の生命がおのおのなすべきところの効能です。

如是作―内在する力が現実に働き出すことです。われわれは、身・口・意の三業を働かせて善悪の作用を行うのです。

如是因―生命それ事態にそなわる原因です。善悪の事が起こる場合には必ず生命それ自体に原因と結果が存在しています。善悪を起こそうとする根本の一念(前念)が習因であり、如是因です。すでになされた善悪を感ずるところの一念(後因)が習果であり、如是果です。

如是縁―如是因と如是果との間を媒介する助縁です。

如是果―生命それ自体にそなわる結果です。

如是報―生命に内在する如是果が外に現れて具体的なかたちをとったものです。

如是本末究等―初めの如是相から終わりの如是報まで、ともに一念の生命の中におさまり持つものであり、一貫した活動・姿であることをいう。例えば、地獄界の生命ならば、如是相から如是報に至るまですべて地獄界であるということ
です。