宿業転換 仏法と世法 信行学

宿業転換

御書には病気や貧乏等をどう解決すべきかを示した指針はありません。ただ御書は人々に人生におけるさまざまな苦悩の根本原因は自分自信の宿業にあることを気づかせ、自分自信で宿業を転換して行ける信心を奮い起こすことを教えてくれるのみです。

例えば我が子が病気で悩んでいる親がいたとします。親は子どもの病気さえ治ればよいと願います。しかし大事なことは病気の子を抱えて悩む親自身の宿業に気づくことです。そして病人を抱えて悩む親の宿命転換を目的として信心に励んでいくことこそが大事なのです。親の宿命転換ができれば子の病気は自然と治るのです。

大聖人は「この病ひは仏の御はからいか。その故は浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はをこり候なり」(P1480)と御教示されています。

病気に苦しんで初めて自身の謗法罪障および悪しき罪業に気づくことができるのです。この病気は信心に目覚めさせてくれる御本尊の御はからいなのだ。今こそ強盛な信心を奮い起こすときなのだ。宿命転換ができる転機なのだ。ーと発心していくならば大きな境涯を切り開いていけるのです。

この御文は単に病気の苦しみに限らず私達の人生におけるあらゆる苦悩と遭遇した際にも通ずる重要な教えであると拝せます。

「たとえば病の起こりを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(P921)

「此の人々は改悔はありと見へて候へども強盛の懺悔のなかりけるか」(P1523)

ただ単に過去の謗法を悔い改めて御本尊に許しを乞えばそれでよしとする安易な姿勢であってはなりません。自身が過去遠々劫より積み重ねてきた悪業は当然自身で償わねばなりません。『強盛の懺悔』とは強盛な信心の持続をいいます。

過去の謗法を心から深くお侘びし、御本尊に対する感謝の念で唱題、折伏に励みゆけば自然と病気を克服することができ、また経済苦を解決していけるのです。

御書には病気の解決法や商売繁盛の方法などが説かれておりません。御書が教えるのは策や方法でなく、信心のありかたであり、どうすれば永遠に崩れない絶対的幸福境涯を築いていけるのかを示してくれているのです。  

仏法と世法  

「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり」(「諸経と法華経と難易の事 P992)

仏法が次第にさかさまになったので、世間もまた濁り乱れてしまった。仏法は本体であり、世間はその影のようなものである。体が曲がればその影も斜めになる。

世法とは世間法を略して世法といったもので、世間とはもともと古代インドのサンスクリット語で「空間、場所、地方・国、日常生活・慣例・世事」を意味していた。これが移り変わる世の中、現象世界を意味するようになった。

観心本尊抄には「天が晴れれば大地の有り様を明らかに見ることができるように、法華経を識る者は、世法をも明確に識ることができる」(P545)と仰せです。「天」つまり仏法(法華経)、「大地」が世法と別々に立て分けられているが、その実は密接な関係にあることが示されている。

また白米一俵御書には「世間の法が仏法の全体である」(P1597)、檀越某御返事にも「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ」(P1295)と仰せです。 これは仏の悟りの境地からみれば世法・仏法といっても全く一体であるということです。

ただし、「世法に流されず仏法根本・信心第一」であることが大切で、仏法根本で物事に取り組み人生を生きていった時には、「天が晴れれば地上も明るくなる」ように、世法の上でも正しい知恵を働かせて勝利の人生にしていくことができるようになります。

仏法の実践を根本に立派な社会人として、人々から信頼される人物に成長していくことが大切です。また「仏法は道理」を銘記し、社会のあらゆる事柄に通達し、実証を示す努力を続けながら社会をリードしていくことが必要です。

信行学

自身の生命の変革を目指す日蓮大聖人の仏法における修行の基本は、「信・行・学」の三つです。 この三つのうち、

「信」は、末法の正法である日蓮大聖人の仏法、なかんずくその究極である御本尊を信ずることです。 この「信」こそ、仏道修行の出発点であり、帰着点です。「行」は生命を変革し、開拓していく具体的実践です。

「学」は教えを学び求める研讃であり、正しい信心と実践への指針を与え、「行」を助け、「信」をより深いものにさせる力となります。 この三つのどれが欠けても、正しい仏道修行にはならないのです。

 日蓮大聖人は、諸法実相抄で次のように仰せになって、「信・行・学」の在り方を示されています。

 「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」( P1361)。

 (通解――世界第一の御本尊を信じなさい。よくよく心して、強い信心をもって、釈迦仏・多宝仏・十方分身仏の守護を得ていきなさい。行学の両面の修行を励んでいきなさい。行学が絶えたところに仏法はありません。自分も実践し、人にも教え、導いていきなさい。行学は信心から起こるのです。人に語ることができるならば、一文一句でも語っていきなさい)

〈信〉

 日女御前御返事には「仏法の根本は信を以て源とす、されば止観の四に云く『仏法は海の如し唯信のみ能く入る』と」(P1244)と述べられています。
 また四信五品抄には「信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す」(P339)と述べられています。
 信は信受ともいいます。教えを信じて受け入れるということです。自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道が信なのです。
 法華経には、釈尊の弟子のなかで智慧第一といわれた舎利弗も、ただ信受することによってのみ、法華経に説かれた法理を理解できたと説かれています。すなわち譬喩品には「汝舎利弗すら 尚此の経に於いては 信を以って入ることを得たり」(開結 P239)とあります。これを「以信得入」といいます。
 生命の実相・宇宙の実相を覚知した仏の偉大な智慧・境涯を自身のものとしていく道は、ただこの「信」によるしかないのです。仏の教えを信じて受け入れていった時に、
はじめて幾分なりとも仏法で説く生命の法理の正しさを理解していくことができるのです。
 日蓮大聖人は、御自身の胸中に体現された宇宙の本源の法を、御本尊として御図顕されました。この御本尊こそが、私たちが成仏の境涯を開くための唯一の対境であると、深く信ずることが大聖人の仏法の修行の根本となります。

〈行〉

 「行」とは、御本尊を信じたうえでの具体的な実践のことです。信を根本とした以信代慧の智慧を目に譬えれば、「行」は自身を目的地にまで運ぶ足に譬えられます。
 法華経では、私たち自身の生命の内に、仏と等しい命の働きが、本来、厳然と具わっていることを説きます。そして仏道修行の目的は、まさしくこの自分自身の生命の内に
秘められた仏と等しい命の働きを顕現して、絶対的幸福境涯を得ていくことにあります。
 しかし、私たち自身の生命の内に具わった力も、それを現実の人生にあって顕し働かせていくためには、具体的な変草・開拓の作業が必要です。
 たとえば、普通、人は誰でもピアノを自在に弾きこなす力を潜在的にもっていると考えられます。しかし現実にその力を引き出し、身につけるには、道理に適った練習方法に則ったうえで、相当な努力と練習を積み重ねていくことが必要です。
 仏法の修行においても、仏の境涯を自身の生命に顕現するためには、道理に適った持続の実践が必要であり、これが「行」なのです。

〈自行と化他行〉

 この「行」には「自行」「化他」の両面があります。車の両輪のように、どちらが欠けても修行は完成しません。「自行」とは自分が法の功徳を得るために修行することで「化他」とは他人に功徳を受けさせるために仏法を教える実践をいいます。
 大聖人は「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(P1022)、また「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(P467)と仰せです。
 すなわち、自分が御本尊を信じて題目を唱えるとともに、人にも御本尊の功徳を教え、信心を勧めていく自行化他にわたる実践が、大聖人の仏法における正しい仏道修行になるのです。
 具体的には、自行とは勤行(読経・唱題)であり、化他とは弘教です。また広宣流布のためのさまざまな実践活動も、化他の修行となります。

〈学〉

 「学」とは、日蓮大聖人が教え遺された「御書」を拝読することを根本にして、正しい仏法の法理を学ぶことです。
 正しい仏法の法理を学ぶことによって、より深く完全な信に立つことができ、また正しい行を行うことができるのです。
 正しい法理を学ぶという、この教学の研鑚がないと、ともすれば我見という、自分勝手な理解に陥ってしまう危険性があり、また誤った教えを説く者にだまされてしまう恐れがあります。
 日蓮大聖人は、或いは「返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし」(P1444)等と、大聖人が認められた法門を繰り返し学んでいくよう呼びかけられ、あるいは、大聖人に法華経の法理についてお尋ねした妙一女や妙法尼に対して、「女人の身として度度此くの如く法門を尋ねさせ給う事は偏に只事にあらず、教主釈尊御身に入り替らせ給うにや」(P1262)、「先法華経につけて御不審をたてて其趣(そのおもむき)を御尋ね候事ありがたき大善根にて候」(P1402)と、その求道心を称えておられます。
 また日興上人は、日興遺誠置文で「御書を心肝に染め」と述べられ、また「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事」(P1618)と、強く教学の研鑚を勧めておられます。