人生は真剣勝負なり 大白蓮華7月号 巻頭言

「今こそ真剣、ほんとうに真剣であらねばならないときだ」
 これは、新しき社会の建設へ、重責を担い立った若きゲーテの決心であった。
 一流の人物は真剣である。自らの信念の道を、一心不乱に突き進む気迫に漲っている。 
   いい加減な人間には、責任がない。
   真剣な人間は、誠実である。
   ふざけ半分の人生は、虚しい。
   真剣な人生には、充実がある。
   とくに、青年は真剣になった時に光る。
 戸田城聖先生は、峻厳に叫ばれた。

   「人生は真剣勝負だ。勝つか、負けるかの熾烈な戦いだ。
   いわんや、広宣流布は、「仏の生命」と「権力の魔性」との大闘争である。
   甘えや気取りががあったら、絶対に勝てない。
   勝つためには、命がけで戦うのだ」

 法華経の従地湧出品第15には、「獅子奮迅之力」と説かれている。この経文を踏まえて、日蓮大聖人 は仰せになられた。

 「獅子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきを  ひを出だす事は・ただをなじき事なり」(1124ページ)
 いかなる人生の課題も、いかなる広宣流布の法戦も、一つ一つ、「奮迅之力」を出し切って戦う。これ が師子の証である。
 創価学会は、真正の師子の集いである。
 ゆえに、戸田先生は厳然と言い放たれた。
 「きょう入会したばかりであったとしても、ひとたび創価学会員として法論に臨んだならば、断じて負 けてはならない」
 創価破邪顕正の師弟に連なることは、それほど誇り高いことなのだ。
  
 ちょうど50年前の7月、28歳の私は関西にいた。共に戦ってくれた同志は、大半が新入会員の方々 である。
 しかし、関西の友は真剣だった。必死だった。「断じて勝つ」と決めて真剣勝負に挑む私に、呼吸を合 わせてくださった。
 「一念三千」こそ、仏法の真髄の極理だ。
 真剣に祈れば、智慧が湧く。
 真剣に動けば、道は開ける。
 真剣に語れば、敵も味方に変わる。
 真剣に戦えば、必ず諸天善神の守護が現れる。

 妙楽大師が「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(1220ページ)と記された通りだ。
 策でもなければ、要領でもない。「法華経の兵法」に徹して戦い抜く執念こそが、最強なのだ。
 「“まさか”が実現」と社会を驚嘆させた、勝利の大金字塔の原点は、ここにある。

 「なぜ、学会はこれほど大発展したのですか」
 幾人かのジャーナリストから尋ねられたとき、私は端的に答えた。
 「命がけです。真剣勝負です。一生懸命にやったからです」と。
 なかんずく、一番、真剣に戦ってくださるのは、婦人部であり、女子部である。
 大聖人御自身が、女性の信心を讃えて、「日蓮よりも強情の御志どもあり」(1126ページ)とまで 仰せになられている。
 この女性の真剣な信心に、男性は最敬礼していくべきだ。ゆめゆめ傲慢であってはならない。
 「驕れば則ち緩怠なり」(管子)という通り、慢心こそ油断と怠慢の元凶となる。

 牧口常三郎先生は、「何ごとも、その場その場で解決しなくてはいけない。手を打たずに放置してしま えば、必ず問題は大きくなる」と厳格に指導された。
 真剣は、スピードである。行動である。リーダーは決して手を抜いてはならない。真剣にして透徹した 祈りで、魔を断ち切ることだ。真剣にして賢明なる指揮で、事故を未然に防ぎ、同志を護ることを忘れ まい。

 大聖人は「竜口までもかちぬ」(843ページ)と宣言された。
 竜口の法難をはじめ、身命に及ぶ、あらゆる大難を勝ち越えられたのである。正義の仏法は絶対に負け ない。
 ともあれ、断じて負け戦はしてはならぬ。断固として正義が勝つことが、広宣流布であるからだ。
 「真剣」の二字という「勝利の利剣」を高らかに掲げ、「異体同心の団結」で晴れ晴れと勝ち栄えてい くのだ。

   真剣な
    また痛快な
     この人生
    共に勝ち抜け
     共に舞い征け