小説「新・人間革命」 宝塔9 3月15日

 盛山光洋は、琉球大学の合格発表の日、西表島の実家で、ラジオ放送を聴き、合格を知った。

 母と手を取り、跳び上がらんばかりに喜んだ。

 彼は入学の手続きをすませると、すぐに那覇の沖縄本部を訪ね、学生部の人を紹介してほしいと頼んだ。

 盛山は、学会を守り抜くとの御本尊への誓いを、必ず果たそうと、心に決めていた。

 琉球大学の同学年で、盛山と共に学生部員として活動したのが、反戦出版で編纂委員会の副委員長を務めることになる桜原正之であった。

 桜原は六人兄姉の末子として横浜で生まれた。両親は沖縄出身である。

 生後間もなく、家が空襲に遭った。一家は着の身着のままで必死に逃げた。しかし、桜原は何も覚えていない。

 終戦から二年後に一家は沖縄に帰り、父親は大工をして働いた。生活は至って苦しかった。

 五歳の時、母は糖尿病がもとで他界する。翌年には、後を追うようにして父も病死した。

 父母が他界したあとは、既に結婚していた長兄が、妹弟五人の面倒をみてくれた。

 桜原は、親戚から戦争の話をよく聞かされた。

 ――空襲があると、亀甲墓といわれる、亀の甲羅のかたちをした一族の墓の中に逃げたこと。水や食料を調達するために、夜中に外に出ると、海から艦砲射撃を浴びせられたこと……。

 桜原の幼少期、沖縄には、随所に戦争の爪痕が痛々しく残っていた。

 田んぼには、赤く錆びた米軍の二台の戦車が放置されていた。

 弾丸も、いたるところに落ちていた。それを探して薬莢から火薬を出し、地面に撒き、火をつけて遊ぶのだ。危険極まりない遊戯だった。

 彼が信心をしたのは、中学三年の時である。先に信心を始めた、三女である姉の姿を見てのことであった。

 姉は皮膚病で苦しんできた。そのために、学校へも行けず、外出もできず、いつも、暗く沈んでいた。その姉が、入会後は、はつらつと家事を手伝うようになり、やがて皮膚病を克服したのだ。

 “この信心には、何かがある!”

 桜原は思った。

 実証は力である。現実にどうなったかに勝負の鍵がある。