小説「新・人間革命」 宝塔37 4月17日
熊本県の青年部も、加害者の側からの視点で反戦出版を行っている。
当初、メンバーは、熊本の第六師団は最強であったと聞かされてきたことに着目し、軍人であった人たちに、「なぜ第六師団は強かったか」との質問をぶつけてみた。
多くの人が快く取材に応じてくれ、戦争の武勇伝を語る人も多かった。
しかし、再度、取材に行き、戦闘で勝利したあとの捕虜の扱いなどを問い始めると、次々と取材を拒否された。
なかには、加害者としての体験を語ってくれた人もいたが、テープを起こして、確認してもらうために原稿を持っていくと、こう言うのだ。
「本にはしたくない。辞退させていただく」
また、虐殺の証言をしてくれた壮年がいた。事実関係のあいまいなところは、戦友に確認してくれることになった。
だが、翌日になると、「あれは俺の勘違いだった」の一点張りで、虐殺自体を否定するのだ。
戦友から証言することに反対されたようだ。
結局、五十人ほどに取材して、証言集に掲載することができたのは、十七人であり、そのうち九人は仮名での掲載が条件となった。
被害と加害の両面が明らかにされてこそ、戦争の全貌が浮かび上がる。それでこそ、真実の反戦出版となるのだ。
残忍な行為に加担した人も、会って話を聞いてみれば、皆、好々爺であった。「出征前は、鶏一羽殺すこともできなかった」という人もいた。
“なぜ、そんな人が無感覚に人を殺せるようになってしまったのか”
編集メンバーは、取材を続け、討議を重ねていくなかで、そこに、戦争というものの魔性の仕組みがあることに気づく。
「自分が死にたくないという本能を、逆に利用して人を殺させるのだ。
ひとたび戦場に押し出されたら、もはや、その流れに逆らうことはできないものだ」
そして、「戦争になってからでは遅い。その前に、戦争なんかさせないために、諸外国との友好の推進など、政治を、平和の方向に動かすことだ」というのが、青年たちの結論であった。
「青年は心して政治を監視せよ」とは、戸田城聖の叫びである。メンバーは、その言葉の重さをかみしめるのであった。
当初、メンバーは、熊本の第六師団は最強であったと聞かされてきたことに着目し、軍人であった人たちに、「なぜ第六師団は強かったか」との質問をぶつけてみた。
多くの人が快く取材に応じてくれ、戦争の武勇伝を語る人も多かった。
しかし、再度、取材に行き、戦闘で勝利したあとの捕虜の扱いなどを問い始めると、次々と取材を拒否された。
なかには、加害者としての体験を語ってくれた人もいたが、テープを起こして、確認してもらうために原稿を持っていくと、こう言うのだ。
「本にはしたくない。辞退させていただく」
また、虐殺の証言をしてくれた壮年がいた。事実関係のあいまいなところは、戦友に確認してくれることになった。
だが、翌日になると、「あれは俺の勘違いだった」の一点張りで、虐殺自体を否定するのだ。
戦友から証言することに反対されたようだ。
結局、五十人ほどに取材して、証言集に掲載することができたのは、十七人であり、そのうち九人は仮名での掲載が条件となった。
被害と加害の両面が明らかにされてこそ、戦争の全貌が浮かび上がる。それでこそ、真実の反戦出版となるのだ。
残忍な行為に加担した人も、会って話を聞いてみれば、皆、好々爺であった。「出征前は、鶏一羽殺すこともできなかった」という人もいた。
“なぜ、そんな人が無感覚に人を殺せるようになってしまったのか”
編集メンバーは、取材を続け、討議を重ねていくなかで、そこに、戦争というものの魔性の仕組みがあることに気づく。
「自分が死にたくないという本能を、逆に利用して人を殺させるのだ。
ひとたび戦場に押し出されたら、もはや、その流れに逆らうことはできないものだ」
そして、「戦争になってからでは遅い。その前に、戦争なんかさせないために、諸外国との友好の推進など、政治を、平和の方向に動かすことだ」というのが、青年たちの結論であった。
「青年は心して政治を監視せよ」とは、戸田城聖の叫びである。メンバーは、その言葉の重さをかみしめるのであった。