小説「新・人間革命」 友誼の道14 5月17日

 山本伸一が宿舎の北京飯店に着くと、日本人記者団が待っており、インタビューを求められた。

 香港から広州、そして北京と、めまぐるしい行程の一日であった。時間も遅く、同行メンバーとしては、全力で行動し続ける伸一には、早く休んでもらいたかった。

 しかし、伸一は、快く丁寧に記者会見に応じた。

 彼は、日本と中国の未来のためにも、世界の平和のためにも、日中の友好がいかに大切かを、あらゆる機会を通して訴えたかったのである。

 ひとたび語り始めると力がわいた。信念への情熱は疲労をも焼き尽くし、新たな闘魂を燃え上がらせる。

 伸一たちが部屋に入って荷をほどき、さらに打ち合わせを終えた時には、北京時間の午前零時を回っていた。  

 朝の北京は、通勤、通学の自転車で埋め尽くされていた。そこには、民衆の躍動と活気がみなぎっている。

 三十一日午前、伸一たちは中日友好協会の金蘇城理事らの案内で、車で故宮博物院に向かった。明・清代の宮殿であった紫禁城故宮)を博物館として公開しているのである。

 かつての紫禁城の城門が天安門であり、その前に広がる天安門広場と周辺の道路で、百万人が集えるという。

 一九四九年(昭和二十四年)の十月一日、毛沢東中華人民共和国の成立を宣言したのも、この門の上であった。

 故宮博物院の正門となっている午門で、一行は車を降りた。

 橋を渡り、「太和門」を抜け、「太和殿」の前に立った。この建物は中国最大の木造建築といわれ、皇帝の即位や誕生日の儀式など、重要な行事が行われたという。

 「太和殿」後方の「保和殿」後部の石段には、一枚の岩に、見事な竜が浮き彫りにされていた。「雲竜階石」という皇帝専用の階段であった。

 この岩は、北京の南西約五十キロにある房山(ファンシャン)で切り出されたもので、総重量は約二百五十トン、長さは十七メートル近くあり、幅も三メートル余りあるといわれる。

 これを故宮に運ぶために、冬場に水をまいて道路を凍らせ、その上に丸太を並べて滑らせたというのだ。