小説「新・人間革命」 友誼の道20  5月24日

教育の道は遠路である。その成果が、本当に明らかになるのは、三十年後、五十年後であろう。

 教員たちは、自分たちの教育が、将来、見事に花開くという確信に満ちていた。

 ともあれ、中国は広大な土地に、八億(当時)もの人口をかかえた国である。その中国で、すべての人民の子弟に、等しく教育の機会が開かれたことは、壮大な偉業といってよい。

 教員たちには、それを可能にした新中国への、誇りが脈打っていた。

 山本伸一の一行は、応対してくれた教職員に、深い感謝の意を表して、新華小学校を後にした。

   

 続いて、午後五時過ぎには、中日友好協会を表敬訪問した。伸一は、今回の招待と真心こもる歓迎に、御礼と感謝の思いをあらためて伝えたかったのである。

 中日友好協会の廖承志会長は、この日も、満面の笑みで包み込むように、温かく一行を迎えてくれた。

 伸一は、丁重に昨晩の出迎えの礼を述べた。

 皆で記念のカメラに納まったあと、和やかな懇談となった。

 伸一が、四面楚歌のなかを戦ってきた創価学会の歴史を語ると、廖会長は愉快そうに語った。

 「四面楚歌の方がやりがいがありますよ。かえって力が出るものです」

 幾多の困難を乗り越えてきた、廖会長自身の体験に裏打ちされた、重みのある言葉であった。

 廖承志は、一九〇八年(明治四十一年)に東京で生まれた。その人生は、波瀾万丈であった。

 父は、孫文の片腕であった革命家・廖仲■<りっしんべんに豈>(りょうちゅうがい)、であり、母の何香凝も、父と同じく中国革命同盟会の活動家であった。

 夫妻は、孫文と共に日本に亡命したこともあった。孫文はよく廖家を訪問し、そこで会合も開いた。幼い廖承志を膝に乗せた写真もある。

 当時の日本にはアジアを蔑視する思い上がりがあった。廖承志も、こともあろうに、教師から「豚の子」と侮蔑されたことさえあった。

 だが、革命の息吹のなかで育った彼は、悔しさを改革のエネルギーへと転じていった。

 困難のない人生などない。逆風に負けずに飛び立っていってこそ、人生の飛翔があり、勝利の喜びと充実があるのだ。