小説「新・人間革命」 友誼の道45  6月23日

周恩来総理は、以前から体調が思わしくなかった。プロレタリア文化大革命、いわゆる“文革”の辛労も大きかった。

 “文革”は、革命精神を永続化するために、階級闘争を忘れてはならないとする、毛沢東主席の指導のもとに始まったが、権力闘争の道具となっていたのである。

 “文革”を推進していた毛沢東主席夫人の江青をはじめとする四人組が、自分たちに従わない人物や反対派の、わずかな落ち度や問題点を探し出しては攻撃し、次々に失脚させていったのだ。

 周総理も攻撃の対象になり、紅衛兵に取り囲まれ、執務室に閉じこめられたこともあった。

 そうしたなかで、二年前の一九七二年(昭和四十七年)の五月に、癌が発見された。それでも入退院を繰り返しながら激務をこなし続けた。

 だが、病状は悪化し、遂に癌の切除に同意したのである。

 総理は重い病をかかえながら、山本伸一たちの訪問に対して、こまやかな気遣いをしてくれた。

 食べ物の好みや、喫煙するかどうかなども、人を介して尋ねた。

 伸一は周総理の思いを知り、「そのお心だけで十分です。一切、特別なことはしていただかなくて結構です」と答えた。

 それでも、伸一が少しでも安眠できるようにと、宿舎のカーテンを遮光性の強いものに、わざわざ取り替えさせたりもしていたのである。

 伸一は、この李先念副総理との会談にも、周総理の深い配慮を感じた。“自分の代理として語り合ってください”との、総理の真心が、痛いほど感じられてならなかったのである。

 イギリスの歴史家カーライルは書き記した。

 「誠実――深く、大きく、純なる誠実こそ、総じて苟くも英雄的なる人物の第一の特性ともいえよう」(注)

 まさに至言であろう。

 会談は、友好的ななかにも、日中の未来を開くための、真剣な対話の場となった。実り豊かな語らいであった。

 伸一は、日中平和友好条約について意見を求めたのに始まり、社会主義と人間の自由、資源問題、組織と官僚主義核兵器の問題など、十項目にわたって、深く掘り下げた質問をしていった。

 副総理も、快く質問に答えてくれた。