小説「新・人間革命」 友誼の道72  7月25日

 中国訪問も、間もなく終わろうとしていた。

 翌六月十四日の昼、山本伸一たちの一行は、上海を発って、空路、広州に向かった。

 中日友好協会の孫平化秘書長は、広州まで、行動を共にしてくれた。

 広州には午後三時前に到着し、夕方、「広州農民運動講習所」を訪ねた。ここは中国革命の原動力となった場所である。

 一九二四年(大正十三年)七月に開校し、中国全土から集って来た青年が講習を受け、農民運動を果敢に展開していったのである。

 毛沢東も数カ月の間、この講習所の所長を務め、周恩来も講師として教えている。

 青年たちは、ここで軍事教育も受け、故郷に帰って農民を組織するなどして、旧体制の巨木を切り倒していったのだ。

 だが、残念なことには、その途上で、多くの若人が亡くなっている。

 何が無名の農村青年たちを、一騎当千の革命の旗手に育て上げていったのか――伸一の関心は、そこにあった。

 もちろん、背景には、地主や役人の横暴や、疲弊し切った農民生活の惨状があったことはいうまでもない。

 この講習所で毛沢東が使ったという部屋を見ると、質素そのものであった。置かれていたベッドも、いかにも硬そうな、木製のものである。

 つまり、指導者も、質実剛健に徹し、青年と一緒になって生活し、行動していたのだ。

 そのなかで、強い共感と同志の絆が育まれ、青年たちは志を固めていったにちがいない。

 また、食堂を見学した折に、案内者は、こう教えてくれた。

 「中国の北からの学生には、彼らの習慣にしたがって、麺類を用意し、豚肉を食べない少数民族の青年たちには、牛肉が用意されました」

 厳しい講習の日々のなかでも、指導者の温かい配慮が光る話である。

 その思いやり、気遣いに対する感激と感謝が、青年たちの闘魂を燃え上がらせ、人間を強くしていったのであろう。真心が人間を育んだのだ。

 訪中最後の夜となるこの夜、一行は広州市の要人たちと食事を共にした。伸一も、峯子も、懸命に対話に努めた。友誼の道を開くために、最後の最後まで情熱を燃え上がらせるのであった。