小説「新・人間革命」 信義の絆1  10月29日

「やるからには、すぐやろう! 新しい路を切り拓くんだ!」(注1)

 山本伸一の胸には、この魯迅の叫びが、強く、激しく、轟いていた。

 また、魯迅は言う。

 「いつの時代にも、かならず、まず剛健なる者があらわれて、先駆となり、前衛となって、歴史に道を開き、清める」(注2)

 伸一は、この箴言を自らに課し、世界平和を創出する先駆となることを心に誓ってきた。

 ソ連訪問から帰国して二カ月ほど過ぎた一九七四年(昭和四十九年)の十一月中旬のことであった。駐日中国大使館を通して、北京大学から、伸一を招待したいという電報が届いたのである。

 彼は、半年前の初の訪中で北京大学を訪問した折、文化交流の一環として日本語書籍など五千冊の寄贈を申し出て、目録を手渡した。その書籍が届いたので、贈呈式を行いたいというのである。

 電報には伸一を熱烈歓迎したい旨が述べられ、こう記されていた。

 「私たちは、会長のご訪問が中日両国人民間の友情及び北京大学創価大学間の友好往来を、さらに一歩増進させると信じております」

 伸一は、より早く訪中して、ソ連のコスイギン首相の話を、中国の首脳に伝えなければならないと考えていた。

 また、中国との文化交流を着実に推進していくためにも、再度の訪中を望んでいた。

 彼は、北京大学からの招待を、ありがたく受けることにしたのである。

 二度目となる伸一の中国訪問は、一九七四年(昭和四十九年)の十二月二日であった。

 午前八時半、妻の峯子と共に羽田の東京国際空港に姿を見せた伸一は、控室で、見送りに来てくれた駐日中国大使館の参事官らと懇談した。

 この日、東京の朝は寒く、北風が身に染みた。

 懇談の途中、航空会社の関係者が、「現在、北京市内は雪模様となっています」と伝えに来た。

 参事官は言った。

 「寒いなか、本当にありがとうございます」

 伸一は答えた。

 「雪でも、極寒でも、どんな悪条件でも、私は勇んでまいります。

 何があろうが、日中友好にかける私の心情は不変です。大誠実をもって行動するのみです」

 信念の人には、障害となるものなど何もない。



引用文献

 注1 魯迅著「傷逝」(『世界の文学セレクション36 魯迅』所収)高橋和巳訳、中央公論社

 注2 魯迅著「破悪声論」(『中国現代文学選集2 魯迅集』所収)伊藤虎丸訳、平凡社