小説「新・人間革命」 信義の絆26  11月28日

山本伸一の第二次訪中は、日中友好の新しい黄金の歴史を刻んだ。

 彼が帰国したのは、十二月六日の午後のことであった。

 帰国後、伸一は、中ソの和解を懸命に祈り念じながら、両国の動きを注視していた。

 また、事態がどうなろうと、中ソの関係改善のために、自分は自分の立場で最善を尽くし続けようと、固く決意していたのである。

 だが、伸一の思いとは反対に、中ソの関係は悪化の一途をたどっていくかに見えた。

 一九七五年(昭和五十年)一月、中国は第四期全国人民代表大会を開催し、憲法を改正した。

 そして、その前文に、「帝国主義、社会帝国主義の侵略政策と戦争政策に反対し、超大国覇権主義に反対しなければならない」(注1)と謳ったのだ。

 社会帝国主義とは、近年、中国がソ連に対して使ってきた言葉である。

 それまでの憲法では、ソ連との友誼を謳っていたが、明確に反ソ路線を打ち出したのだ。

 「四人組」が一切を牛耳っていた時である。彼らにはコスイギン首相の言葉は伝わっていなかったのであろう。

 これを受けて、ソ連も激しく中国を非難した。

 中ソ対立は、ますます激しさを増したとしか思えない状況であった。

 この七五年の全人代周恩来総理は、病身を押して「政府活動報告」を行い、四つの現代化政策の推進を提起した。

 それは「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の近代化を全面的に実現して、わが国の国民経済を世界の前列にたたせる」(注2)というものである。

 この「四つの現代化」という壮大な計画は、その後の中国がとった「改革・開放」路線の基盤となり、今日の大発展へとつながっていく。

 周総理が、その政策を提起しえた背景について、後年、南開大学周恩来研究センターの所長を務めた孔繁豊は、こう語っている。

 「この計画(四つの現代化)の実現には正確な国際情勢の判断が不可欠だった。その時、名誉会長を通じてソ連の態度を知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家の再建計画を大胆に実行することができたのだ」(注3)



引用文献

 注1、2 『中国月報』第195号、(財)霞山会

 注3 「聖教新聞」2004年12月6日付