小説「新・人間革命」 SGI30 2月6日

山本伸一は、世界平和会議でスピーチを終えると、各テーブルを回って参加者をねぎらった。

 東南アジアのメンバーの席に来た時、温厚そうな五十代後半の壮年に声をかけた。シンガポールの代表である高康明であった。

 「高さん、よく頑張ってきましたね。シンガポール広宣流布は大きな広がりを見せています。

 私が最初にシンガポールの空港に降りた時には、まだ、メンバーは誰もいなかった……」

 それは、伸一が初めてアジアを歴訪した一九六一年(昭和三十六年)の一月のことであった。香港からセイロン(現在のスリランカ)のコロンボに向かう途中、飛行機の給油のために立ち寄ったのである。

 日本軍は、戦時中、シンガポールを占領し、人びとに塗炭の苦しみを味わわせ、多くの生命を奪った。

 空港でそのことを思うと、伸一の胸は張り裂けんばかりに痛んだ。

 彼は、一人の日本人として、シンガポールの平和と人びとの幸福のために、生涯、献身し抜いていくことを心に誓った。

 そして、空港の待合室の窓辺に立ってシンガポールの繁栄を祈り、“出でよ、地涌の菩薩よ! 集い来れ、使命の同志よ!”と、懸命に唱題したのである。

 「あれから十四年で、シンガポールも、また、あなたが担当してきたマレーシアも、広宣流布は大きく進みました。隔世の感があります。

 高さんの功績です。あなたが陰でどれほど苦労して奮闘してきたか、私はよく知っております」

 「戦って戦って戦い抜いた人は、必ず賞讃せよ!」とは、戸田城聖の教えであった。

 広宣流布の功労者を讃えることは、“仏の使い”を讃えることだ。

 高は「もったいないお言葉です。私など……」と言って目を潤ませた。

 高は中国名を名乗っているが、瀬戸内海に浮かぶ愛媛県の弓削島生まれの日本人である。

 商船学校に学び、このころから、英語の学習に力を注いだ。卒業後は、貨物船の航海士を務めたあと、船舶の入出港の手続きなどを行う船舶代理店に勤務した。

 そこでシンガポールに派遣されたのだ。戦時中の一九四二年(昭和十七年)のことである。