小説「新・人間革命」 人間外交20  3月25日

三度目の中国訪問が、間近に迫っていた。

 今回、山本伸一は、四月十四日に関西から中国に旅立つことにしていたのである。

 七日、創価大学では入学式を前にして、新入生の入寮式が行われた。

 「新中国からの留学生も、寮に入ることになりますので、彼らも入寮式に出席します」

 創価大学の関係者から、こう報告を受けた伸一は、日程を調整して、入寮式に駆けつけたのである。

 大学の構内にある滝山寮の集会室で入寮式は行われた。

 留学生たちは、日本での生活自体が慣れないうえに、日本人と一緒に寮生活を送ることになる。

 みんなが、どんなに心細い気持ちでいるかと思うと、伸一は、会って励まさずにはいられなかったのである。

 そもそも、入学する六人の留学生の、身元保証人になっていたのは伸一であった。

 日中の国交は、一九七二年(昭和四十七年)九月の日中共同声明によって正常化され、貿易などの経済的な交流は進められたが、教育交流は遅々として進まなかった。

 特に新中国からの正式な留学生を受け入れる日本の大学は、なかなか見つからなかった。

 また、聴講生などの立場で日本の大学で学んでいる中国人学生はいたが、多くの日本人の接し方は、概して冷たかったようだ。文化大革命のさなかであり、中国に対して悪いイメージをもっていた日本人が多かったためでもあろう。

 伸一は、第二次訪中を終えた七四年(同四十九年)の年末、駐日中国大使館に一等書記官として赴任してきた金蘇城と聖教新聞社で懇談した。金蘇城は、中日友好協会の理事を務め、伸一が交流を深めてきた人である。

 そこで、中国人留学生の受け入れ先を探しているとの話を聞いたのだ。

 「それでしたら、応援させていただきます」

 そして、伸一は、自らが身元保証人となって、創価大学に留学生を受け入れるよう尽力することを約束したのである。

 ビクトル・ユゴーは、力を込めて訴えた。

 「“今日の青年”を育成することは“明日の人間”を創ることです。その“明日の人間”が“世界共和国”を形成するのです」(注)



引用文献:  注 『ビクトル・ユゴー書簡集』パシフィック大学出版局(英語版)