小説「新・人間革命」  4月19日 人間外交41

「五年間に及ぶカンボジア内戦が終わった!」

 山本伸一が、中日友好協会の廖承志会長と会った四月十七日、このニュースが世界を駆け巡った。

 翌十八日、伸一は北京市内にあるカンボジア王国民族連合政府の元首府を訪ね、元首のノロドム・シアヌーク殿下と会見したのである。

 まさにカンボジアの大きな節目に行われた、歴史的な会見となった。

 元首府は、新中国誕生前は、フランス大使館として使われていた建物であった。

 カンボジアは、九世紀以降のアンコール王朝時代、「アンコール・ワット」に象徴される荘厳な建造物を数多く建築し、強大な力を誇っていた。

 しかし、インドシナに進出したフランスによって、一八八七年には、フランス領インドシナ連邦に組み入れられた。

 カンボジアが完全独立を果たしたのは、一九五三年(昭和二十八年)のことである。その交渉に当たり、手腕を発揮してきたのが、国王のシアヌークであった。

 彼は一九二二年(大正十一年)に生まれ、十八歳で国王に即位した。

 独立後に、退位して首相となり、その後、「国家元首」に就任し、中立外交を推進してきた。

 しかし、アメリカとの間で亀裂が生じ、国交を断絶。自力更生を基本にして進んできたが、天候不順による凶作なども重なり、カンボジア経済は危機に瀕していった。

 そして、七〇年(昭和四十五年)三月、シアヌーク殿下の外遊中に、親米右派勢力であるロン・ノル将軍によるクーデターが勃発したのだ。

 殿下は、国家元首の座を奪われ、死刑を宣告された。やむなく、中国に亡命し、北京でカンプチア民族統一戦線を結成し、さらに、王国民族連合政府を樹立。以来、五年間の亡命生活を余儀なくされてきたのである。

 カンボジア国内ではロン・ノル政権と、シアヌーク殿下を支持する反米勢力の間で激しい内戦が続いた。その間、殿下への中傷も繰り返された。

「真に重要な人物であって、しかも多くの苦難をなめずして人生を経てきた者はかつてなかったであろう」(注)とは、スイスの哲学者ヒルティの鋭い洞察である。

 殿下は、過酷な運命に敢然と挑んだ。



引用文献: 注 ヒルティ著『幸福論』草間平作・大和邦太郎訳、岩波書店