小説「新・人間革命」  5月17日 人間外交64

魯迅はやがて、仙台医学専門学校を辞めて帰国し、中国人民の精神改造のために、正義のペンを執ることになる。

 教師の藤野厳九郎は、仙台を去る魯迅を家に招き、自分の写真を贈る。その裏には「惜別」の文字が記されていた。

 魯迅はさらに、藤野について、こう書いている。

 「かれの写真だけは今でも北京のわが寓居の東の壁に、机のむかいに掛けてある。夜ごと仕事に倦んでなまけたくなるとき、顔をあげて灯のもとに色の黒い、痩せたかれの顔が、いまにも節をつけた口調で語り出しそうなのを見ると、たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる」(注)

 「良心」を、そして、「勇気」を呼び覚ましてくれるのが師である。

 だから、正しい師をもつ人は、正義の道を歩み抜くことができる。強く勇敢に生き抜くことができる。人生の師をもつ人は幸福である――。

 上海での歓迎宴で山本伸一は、決意をかみしめるように、話を続けた。

 「私は、創価大学の教師、学生と、中国からの留学生の間にも、このような美しい友情が育まれることを念願しております。いな、そうなるように最大限の努力を払ってまいります。

 希望の未来へつながる限りない発展性を秘めたこの友好の種子が、やがて亭々たる巨木となっていくよう、しっかり見守り、貴国の信頼に対して、誠意と信義の行動で応えていく所存です」

 創価大学に学んだ中国からの、この六人の留学生は、その後、それぞれが使命の大空に羽ばたき、日中友好のために大活躍していくことになる。

 伸一が結ぼうとしていたのは、政治や経済のための友誼ではない。本当の意味での「信頼の絆」であり、「友情の絆」であった。利害を超えた「人間の絆」であった。

 伸一の行動は、二十一世紀の人類共存の大河を、平和の大潮流を開くための人間外交であった。そこに彼は、生命をかけていたのだ。

 伸一は確信していた。

 “後世の歴史は、必ずやわれらを、世界平和の開拓者として絶讃するであろう”と。

 伸一の一行が第三次訪中を終えて帰国したのは、四月二十二日の午後二時半過ぎであった。

   (この章終わり)



引用文献:  注 『魯迅文集2』(同書中「朝花夕拾」所収の「藤野先生」)竹内好訳、筑摩書房