小説「新・人間革命」 共鳴音20 6月11日
この一九七五年(昭和五十年)の二月、アウレリオ・ペッチェイ博士から山本伸一に、会談を希望する書簡が届いた。
その後、両者の間で、具体的な日時と場所が検討され、当初は、イタリアのローマで会見する予定であった。
伸一は、ローマを訪問する日程を組んでいたのだ。ローマ法王庁から正式な招待を受け、バチカンでローマ法王と会見することが決まっていたからである。
彼は、世界の平和をめざすうえで、キリスト教との対話は、極めて重要であると考えていた。
教義は異なっていても対話していくならば、人間を守り、平和を築くということにおいては、互いに理解し合い、協調し合えるというのが伸一の確信であった。
また、キリスト教に限らず、イスラム教とも、ユダヤ教とも、ヒンズー教等とも対話を重ねていかなければ、世界平和の大潮流をつくることはできないと、彼は痛感していた。
ローマ法王庁の関係者とは、既に八年前から対話を始めていた。
カトリックと仏教が互いに理解を深め、世界平和を築くための共通の土台をつくっていきたいとの、意見の一致も見ていたのだ。
そのなかで、ローマ法王との会見を勧められ、この七五年(同五十年)の欧州訪問にあたって、ローマ法王庁への招待を受けていたのである。
しかし、出発直前になって、宗門は難色を示し始めた。
伸一は、残念でならなかったが、宗門の最終的な賛同が得られないかぎり、中止せざるをえなかった。
この会見が実現すれば、どれほど有意義な世界平和への語らいがなされたことであろうか。
また、ヨーロッパ訪問の直前、イタリアの空港がストライキを起こし、便の発着が不安定な状態にあった。そのために他のスケジュールに影響が出て、多くの方に迷惑をかけることは避けなければならない。
そこで、ローマの訪問を取りやめたのである。
そして、ペッチェイ博士には、お詫びするとともに、その旨を、丁重に伝えてもらった。
すると博士は言った。
「それでは、私の方から、会長のいらっしゃるパリにお伺いします」
その後、両者の間で、具体的な日時と場所が検討され、当初は、イタリアのローマで会見する予定であった。
伸一は、ローマを訪問する日程を組んでいたのだ。ローマ法王庁から正式な招待を受け、バチカンでローマ法王と会見することが決まっていたからである。
彼は、世界の平和をめざすうえで、キリスト教との対話は、極めて重要であると考えていた。
教義は異なっていても対話していくならば、人間を守り、平和を築くということにおいては、互いに理解し合い、協調し合えるというのが伸一の確信であった。
また、キリスト教に限らず、イスラム教とも、ユダヤ教とも、ヒンズー教等とも対話を重ねていかなければ、世界平和の大潮流をつくることはできないと、彼は痛感していた。
ローマ法王庁の関係者とは、既に八年前から対話を始めていた。
カトリックと仏教が互いに理解を深め、世界平和を築くための共通の土台をつくっていきたいとの、意見の一致も見ていたのだ。
そのなかで、ローマ法王との会見を勧められ、この七五年(同五十年)の欧州訪問にあたって、ローマ法王庁への招待を受けていたのである。
しかし、出発直前になって、宗門は難色を示し始めた。
伸一は、残念でならなかったが、宗門の最終的な賛同が得られないかぎり、中止せざるをえなかった。
この会見が実現すれば、どれほど有意義な世界平和への語らいがなされたことであろうか。
また、ヨーロッパ訪問の直前、イタリアの空港がストライキを起こし、便の発着が不安定な状態にあった。そのために他のスケジュールに影響が出て、多くの方に迷惑をかけることは避けなければならない。
そこで、ローマの訪問を取りやめたのである。
そして、ペッチェイ博士には、お詫びするとともに、その旨を、丁重に伝えてもらった。
すると博士は言った。
「それでは、私の方から、会長のいらっしゃるパリにお伺いします」