小説「新・人間革命」 共鳴音26 6月18日
山本伸一とペッチェイ博士との語らいは、実に多くの点で意見の一致をみた。
約束の二時間半は、あっという間に過ぎてしまった。伸一も、博士も、話し合いたいことは、まだまだたくさんあった。
そこで二人は、今後も会談と書簡によって意見交換を続け、将来は人類の啓発のために、対談集を出版していくことを確認し合った。
伸一は、このパリに始まり、東京、イタリアのフィレンツェ、東京、パリと、博士が亡くなるまでに、計五回にわたって会談し、書簡でも語らいを重ねた。
四度目となる一九八二年(昭和五十七年)一月の東京での会談では、それまでの語らいと往復書簡の内容をまとめた対談集発刊の打ち合わせも行われた。
博士は各国語での発刊を希望し、出版を急ぎたいとの意向であった。
「人類の未来のために一刻も早く!」というのが、口癖であった。
最後の会談となった、八三年(同五十八年)六月のパリでの会談では、博士はアメリカから駆けつけてくれた。
その時、パリの空港で、荷物を全部、盗まれてしまったのである。
だが、伸一との約束の時間に間に合わせるために、盗難届を出すのも後回しにして、車を走らせたのだ。
博士は大誠実の人であった。人類の未来を開くために、真正面から戦い抜いた人であった。
翌八四年(同五十九年)三月、博士は他界する。七十五歳であった。
その直後、対談集は、まずドイツ語版が発刊になった。本のタイトルは『手遅れにならないうちに』である。
日本語版が英語版と共に発刊されたのは、その年の十月であった。日本語版タイトルは『二十一世紀への警鐘』である。
対談集は、その後、中国語、スペイン語などに翻訳され、十七点が出版されることになる。
今日、大気汚染による地球温暖化などを、人類の多くが深刻に受け止め始めた。その叫びを放った先駆者は博士である。
「世界を変革できるのは、青年だよ。青年の人間革命によって、世界は変わるんだよ」
晩年、博士が子息に語っていた言葉である。
その子息とも、伸一は深い交流を結んできた。
約束の二時間半は、あっという間に過ぎてしまった。伸一も、博士も、話し合いたいことは、まだまだたくさんあった。
そこで二人は、今後も会談と書簡によって意見交換を続け、将来は人類の啓発のために、対談集を出版していくことを確認し合った。
伸一は、このパリに始まり、東京、イタリアのフィレンツェ、東京、パリと、博士が亡くなるまでに、計五回にわたって会談し、書簡でも語らいを重ねた。
四度目となる一九八二年(昭和五十七年)一月の東京での会談では、それまでの語らいと往復書簡の内容をまとめた対談集発刊の打ち合わせも行われた。
博士は各国語での発刊を希望し、出版を急ぎたいとの意向であった。
「人類の未来のために一刻も早く!」というのが、口癖であった。
最後の会談となった、八三年(同五十八年)六月のパリでの会談では、博士はアメリカから駆けつけてくれた。
その時、パリの空港で、荷物を全部、盗まれてしまったのである。
だが、伸一との約束の時間に間に合わせるために、盗難届を出すのも後回しにして、車を走らせたのだ。
博士は大誠実の人であった。人類の未来を開くために、真正面から戦い抜いた人であった。
翌八四年(同五十九年)三月、博士は他界する。七十五歳であった。
その直後、対談集は、まずドイツ語版が発刊になった。本のタイトルは『手遅れにならないうちに』である。
日本語版が英語版と共に発刊されたのは、その年の十月であった。日本語版タイトルは『二十一世紀への警鐘』である。
対談集は、その後、中国語、スペイン語などに翻訳され、十七点が出版されることになる。
今日、大気汚染による地球温暖化などを、人類の多くが深刻に受け止め始めた。その叫びを放った先駆者は博士である。
「世界を変革できるのは、青年だよ。青年の人間革命によって、世界は変わるんだよ」
晩年、博士が子息に語っていた言葉である。
その子息とも、伸一は深い交流を結んできた。