小説「新・人間革命」  11月19日 新世紀2

 ソ連から帰国した山本伸一は、この日の夜には副会長会議に出席して、新しい出発の打ち合わせを行うなど、一日の休息もなく、広宣流布の諸活動に全力を注いでいった。

 そして、六月の五日には、彼の故郷でもある大田区の代表五十人と、東京・港区内で協議会をもった。

 大田は、伸一を生み、育んだ天地である。師匠の戸田城聖との出会いも、この地であった。また、彼の広宣流布の初陣ともいうべき、一九五二年(昭和二十七年)の「二月闘争」の主戦場も大田であった。

伸一は蒲田支部の新任の支部幹事として指揮を執り、一支部で二百一世帯という、当時としては未曾有の弘教を成し遂げたのだ。

 この蒲田支部の戦いが、それまでの低迷を打ち破り、戸田城聖が生涯の願業として掲げた、会員七十五万世帯達成への突破口を開いたのである。

 伸一が、第三代会長の就任式に出発したのも、初の海外訪問に出発したのも、大田区小林町の自宅からであった。

ローンで購入した、小さな、質素な家であったが、そこから世界広宣流布の歴史が織り成されていったのだ。

 大田には、伸一が生命を削るようにして築き上げた黄金の歴史が無数にある。まさに、かけがえのない創価の精神の宝庫である。

 この誇りを忘れれば、どんなに偉大な歴史も単なる昔話となり、その精神は埋もれ、死滅していってしまう。

師匠が、先人たちが、築き上げてきた敢闘の歴史は、その心を受け継ぎ、新しき戦いを起こそうとする後継の弟子によって、今に燦然たる輝きを放つのだ。

 伸一は、大田の同志には、あの「二月闘争」の指揮を執った若き日の自分と、同じ決意、同じ自覚、同じ情熱をもって、新時代の突破口を開いてほしかった。

自分に代わって、皆が力を合わせ、大田を広宣流布が最も進んだ模範の地にしてほしかった。

 “出でよ、陸続と出でよ! 山本伸一よ!”

 彼は、そう祈り、念じながら、大田区の協議会に出席したのだ。