【第5回】 第2代会長 2 2009-1-10

「どこまでも 師弟の道を行け! 一人の青年が声を上げ学会は救われた



矢島周平という男



 戸田城聖から矢島周平に理事長職が正式にバトンタッチされたのは、昭和二十五年(一九五〇年)十一月十二日、創価学会の第五回総会である。

 矢島の経歴については、さほど会内でも知られていたわけではない。

 信州生まれ。本籍地は長野県小県郡禰津村。共産主義にかぶれ、ずっと貧乏ぐらしの男だった。

 その矢島は、昭和十年の正月、親友に連れられ、牧口常三郎と会った。

 「私は法華経の修行者で。もしマルクス主義が勝ったら、私は君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君は私の弟子となって、世のために尽くすのだ」

 矢島は度肝を抜かれ、三日とおかず牧口宅を訪ねる。

 三カ月ほど続いたころ「恐れ入りました。長い間ありがとう存じました」。

 帰ろうとする矢島を「待ちなさい。初対面の時の約束を、よもや忘れはしないだろうね」と牧口は制した。

 矢島は学会員となった。

 それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。

 共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。

 「ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります」

 矢島は教員をしていた。

 教育県の長野では共産思想にかたよった教員らが数百人も検挙され、多くが教職を追放された。この「教員赤化事件」と呼ばれる騒動に連座していた。

 わざわざ警視庁と内務省にあいさつしたのは、そうした背景のためと思われる。

 思想犯のレッテルを貼られ、闇から闇へ逃げるしかなかった矢島。それを、ここまで牧口が治安当局のトップと話をつけ、日の当たる場所に戻してもらったのだから、ありがたい話である。



 しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである。

 そのまま学会と縁を切るかと思いきや、戦後は、戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている。

 これだけ変節を繰り返してなお、混乱のすきを突いて理事長になるとは、相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。

 学会の青年部にも、彼なりの計算で取り入っていたようである。

 そのころを知る人物。「人に取り入るのが、うまかった。青年部は、よく相談していた。戸田先生は、おっかないから、矢島のほうが話しやすかったのだろう」

 物わかりのいい顔をして、若手の歓心を買う。いずこの組織にも、ありがちな先輩である。



 現実は暗転しつづける。矢島に追われるように、戸田城聖は西神田を去る。十二月、大蔵商事の事務所が新宿の百人町に移った。

 現在の地図を見ると、新宿駅から山手線・西武新宿線が並んで北に延びていくが、やや北西にかたむく中央本線との間でVの字が措かれている。V字形の根もとあたりに事務所はあった。



 百人町からの反転



 今、その界隈にはカフェやファストフード店が並ぶ。煮干し風味で知られる人気ラーメン店に行列ができ、往時をしのぶものはない。

 しかし、かつてガード下にはベッドハウスがぎっしりと並び、その日暮らしの労働者が身を寄せていた。たえまない震動と走行音がする。

 その一角のレンズ工場跡地に事務所を置いた。工場の主は戦後、戸田城聖から法華経の講義を受けながら後に離れていった男である。

 地肌がむき出しの土間。机と、それを囲むようにして長椅子が置かれているだけだった。梁に裸電球が、ぶらさがっている。

 出版界のメッカ神田にくらべれば、都落ちの感は否めない。社員も池田大作青年のほかに戸田の親戚が二、三人しかいない。

 池田青年の日記も、こんな言葉で埋められている。

 「昨日まで、水魚の仲の親友も、今日は、腕を振るう敵となる。今朝まで、心から愛していた人が、夕べには、水の如く、心移り変わる。先日まで、親しく会話していた客人も、一瞬の心の動掘にて、血相を変えて怒る」(十二月十二日)

 親友が敵になる。朝には信じていた人が夕方に裏切る。うちとけていた客が一瞬で血相を変える。

 無理もない。

 新宿のガード脇にある小屋のような会社を見て、だれが将来性を信じるだろう。

 しかし、このどん底から反転は始まるのである。



 矢島にとっては一世一代のチャンス到来だった。

 百人町に移ってから、戸田城聖が西神田の本部に現れる回数も減った。それをいいことに組織の壟断をたくらむ。

 戸田に会うと「おお、これは戸田前理事長」と大仰に持ち上げた。

 口では「戸田先生」と言いながら、会合では同格の席次に並び、戸田が話している最中にも口をはさむ。さらに何人かの参謀格の手下に「矢島先生」と言わせた。

 だれもがあきらめ、傍観していたが、ひとり糾弾したのが池田青年である。

 矢島は、黒い噂の絶えない男であった。

 廃棄処分のチョコレートを会員に売りつける。女性会員に言い寄る。戸田城聖を慕う会員を切り崩し、自派に取りこむ。

 要するに、金、異性、権力欲が三拍子そろっていた。

 本来なら戸田が厳しく戒めるところだが、それどころではない。「おれの方には大作しかいなくなっちゃったな」とつぶやいている。

 「誰も『戸田先生』と言わなかった時、私がひとり『戸田先生、戸田先生』と叫んだ。叫び続けたんだ。師匠の名前を呼ぶ。叫ぶ。それが大事なんだ。『戸田先生』と叫ぶことで、私は学会を守ったんだ」(池田SGI会長)

 どこまでも師弟の道をゆくことを訴えた。

 もし専横を放置していたら、学会は矢島に乗っ取られたかもしれず、その結果として今とは似ても似つかぬ姿と化していたかもしれない。



 学会の機関誌である「大白蓮華」の巻額言。

 戸田理事長の辞任を受け、昭和二十五年の秋から、四回にわたり矢島が書いている。

 前の三本と最後の一本をくらべると、ある事実が浮きぼりになる。

 前者は、戸田城聖の話の受け売りであり、ほとんど盗用といっていい。苦境の戸田を守り、学会を支えるといった覚悟などまったくない。我こそ学会のトップと言わんばかりの論調になっている。

 ところが、後者では一転、さも戸田門下を代表するような物言いで書かれている。

 あまりに落差がある。

 その原因を探っていると、一会員が証言してくれた。

 「矢島? すごい理屈っぽい人。横柄で攻撃的だった。もちろん人気なんかなかった。とうてい信頼できる人じゃない。みな、これから、どうなっていくんだろうと心配だった」

 本人は、有頂天で多数派工作に熱中するものの、人望がともなわない。

 さりとて、矢島の増長をたしなめ、その暴走を食いとめる者もない。当時の学会首脳は、遠巻きにして洞ヶ峠を決めこむばかりである。

 「私は創価学会を幾度も救った。まず戸田先生の事業の苦境。矢島の謀略」

 周囲の話を総合すると、この四本日の巻頭言も、池田青年が師弟を正したことで、がらりと内容が変わったものと考えられる。

 だれが本当の師匠か分からなくなっていた学会を一人の青年が救ったのである。

        (続く)

時代と背景

  「この本を君にあげよう」。昭和28年の新春、恩師は1冊の本を愛弟子に手渡した。ローマを舞台にした大河小説『永遠の都』(ホール・ケイン著)。十数人を選び、回し読み.した。

 裏切るな! 青年ならば! 四面楚歌の情勢下、革命児ロッシイ、フルーノの同志愛を心に刻む。「嵐のような弾圧も、覚悟のうえで進む以外にない」(池田大作著『若き日の読書』)