【第4回】 第2代会長 1 2009-1-9

わかりました 戸田先生に 必ず会長になっていただきます

私が全力で戦い、守ります



 理事長を辞任する



 「毎年、八月二十二日が来ると思い出す。暑い暑い日だった」

 池田大作SGI会長は今も時折、述懐する。

 昭和二十五年(一九五〇年)のその日は火曜日だった。東京で、この夏一番となる三四・二度を記録した。

 西神田の事務所に、大蔵大臣から、一通の行政命令が届いた。

 事務員が封書をあらためると、さすがの戸田城聖理事長も口をかたく結び、険しい色を浮かべた。

 ──翌二十三日から、東京建設信用組合は、営業を停止せよ。

 組合の合併先あっせんを大蔵省に依頼していたが、回答の代わりに届いたものは最悪の通知だった。

 負債の総額は七千万円以上。現在の貨幣価値になおすと二十数億円にもなる。

 仮に債権者との交渉がうまくいっても、組合の清算が認められるかどうかは、大蔵省の判断にゆだねられる。

 それ以上に問題なのは、法律上の責任だった。

 当局の出方しだいでは、組合の専務理事である戸田理事長本人の刑事責任を問われかねない。



 二日後の二十四日。

 大粒の雨に打たれた神田の街は暑熱もやわらぎ、学会本部の二階に吹き込んでくる夜風は、しつとり涼味をふくんでいた。

 法華経の講義にひと区切りつけると戸田理事長は切り出した。

 「折り入って聞いてもらいたいことがある」

 常と変わらない声だった。「思うところあって、創価学会の理事長の職を、きょうかぎりで、辞任することにしました」

 何のためらいもない口調だったため、発言の重みをすぐに悟れない受講者もいた。

 会場の一隅にいた池田青年は瞬時に事の重大さを知った。師は、すべて一身に負う覚悟である。

 辞意を伝えた戸田城聖は、後任に理事の矢島周平を指名し、この日は散会となった。

 がらんとした部屋に、何人かの幹部が困惑した面持ちで額を寄せている。戸田は中二階に消えていった。

 池田青年は一階の事務所で、昼間のできごとを思い返した。

 師と二人でマスコミが債権者をあおらないよう、新聞記者と折衝したばかりだった。

 学会も早く新聞を持たなければならないと思った師から「よく考えておいてくれ」とも言われた。

 それが、なぜ急に──。

 頭を目まぐるしく回転させた。どうしても確かめたいことがある。ギシギシときしむ階段をのぼりはじめた。

 大きな段差を踏みしめると、奥まったスペースが中二階になっている。取引先との出納額を整理する帳場のような場所だった。恩師がひとりになるとき、よく使う。

 声をかけると、奥から師が身を起こした。

 ──戸田先生、理事長が矢島周平に変わると、自分の師匠も矢島になってしまうのでしょうか。

 その間いは言下に否定され、苦労ばかりかけてしまうが、君の師匠はぼくだよ、と答える場面は、これまでも公にされてきた。

 この回答が返ってくることを、池田青年は確信していたにちがいない。

 なぜならば、その直後に、こう言い切っている。

 「わかりました。では矢島さんではなく、戸田先生に必ず創価学会の会長になっていただきます。

 そのために私が全力で戦い、お守りします」



 三点の闘争目標



 この言葉には重要な意味がある。

 牧口初代会長が獄死してから、創価学会の会長職は空席のままである。

 この日、戸田城聖は事実上、学会で無役になった。新理事長の矢島は現時点の最高位にいる。

 こうした状況をふまえ、池田青年の発言を整理する。

 1.矢島路線を転換する。

 2.師を刑事責任から守る。

 3.師を新会長にする。

 この三点を理事長辞任という最悪の事態の中で即座に組み立てたのである。

 1.に関しては、矢島という男が、いかなる人物なのか、この章でつぶさに検討してみたい。

 2.は国法との戦いである。これは想像を絶する苦難がともなう。

 3.は、前の1.と2.が達成されて、はじめて可能になる。

 むしろ中二階での会話は、この三点の闘争目標を確認するため、あえて恩師に迫ったと考えるのが自然なのかもしれない。



 十月初旬、新たに大蔵商事株式会社が設立され、西神田の事務所におかれた。

 東京建設信用組合の精算に当たって戸田城聖は、その負債を全て個人でかぶることにした。これも学会に累を及ぼさないための苦渋の決断であった。

 しかし、なかには組合との契約を戸田個人とのそれに変えることを嫌がる出資者もいた。そこで新会社の大蔵商事と契約するかたちにしたのである。

 おもに金融と保険をとりあつかう会社である。戸田は新会社の最高顧問になり、代表取締役には元警察署長の男を迎えた。

 秋風の季節になっても、池田青年には上着がない。

 遅配つづきだった給料は、八月に半額が支払われたきり給料袋を見なくなった。

 活路を開くため、伊豆の伊東や埼玉の大宮にも足を運んだが、ワイシャツ一枚で働いている者など、ほかにいなかった。

 食費もない。タクワンをおかずに白米が食べられれば、まだよかった。

 十代から肺を病んでいるというのに、パン一個、リンゴー個で、しのぐ。見かねた義姉が外食券や衣類を届けにきてくれた。

 はた目には、こう映ったにちがいない。おかしな宗教に入って教祖にだまされてしまった──。

 だが池田青年が、どれほど苛烈を極める状況で、師匠のために苦闘し、血路を開いたか。その全貌を知るのは、師弟二人のみである。

 文字通り生死を共にした師弟の境地は、余人には知る由もない。



 西神田の町には、昼げのにおいが漂っていた。

 戸田城聖は事務所の机に座ったまま、食事を取ろうとしない。池田青年は、すばやく察し、ポケットの幾ばくかの小銭を確かめた。

 師に向かって、深々と一礼する。

 「王様、お食事の用意ができました。私が、お供申し上げます」

 戸田はニッコリとうなずくと、池田青年に案内され、町の食堂に向かった。

 ちょうどこのころ、仙台から就職先を探しに上京した、渋谷邦彦。池田青年の大森のアパートに五日間、泊めてもらった。

 朝が早い。帰りは、連日深夜。にもかかわらず、こまやかに気づかってくれた。

 「東京は食糧難ですから、これを使ってください」と、貴重な外食券まで分けてくれた。──こんな人が、学会にいたのか。

 池田青年の体調はすぐれない。時に激しく咳き込むと、のどの奥から生ぬるいものが逆流する。洗面所に駆け込み、背中を折り曲げる。流しや容器が、血に染まった。

 そんな場面を恩師に見られたことがあった。

 戸田は、同じく若いころ肺を病み、バケツに顔を突っ込んで血を吐いたこともある。

 まな弟子の背中をさすりながら、思った。

 俺は鬼のような男かもしれない。それでも、お前はついてきてくれるのか。

 池田青年だけが、頼りだった。



 十一月二十七日、池田青年は営業部長となる。部下はいない。このあと一年以上たってから新社員が採用されるまで孤軍奮闘であった。

 給料は三カ月も無配のままだったが、二十八日に一部を支給された。着替えがない。大森駅の近くで百六十円なにがしを払って、シャツなどを買った。

 翌二十九日は、冷たい雨がふり、寒波が街をひとのみにした。

 大蔵省にかけ合ってきた師が戻ってきたころには、みぞれになっていた。

 傘を閉じ、世の中は寒いなあ、と肩をすぼめた。