【第3回】  日本正学館 3 2009-1-7

畑ちがいの仕事で



 予期せぬ恩師の事業の暗転──脚本家・橋本忍のインタビューのさい、池田大作SGI会長は当時を振り返って述べている。

 「信心というのは、こういう試練を経なければいけないのです。社会の荒波を乗り越えなければならない。その目的のため、あらゆる苦労をしていった」

 もし日本正学館の経営が順調で、師弟が幸福な編集者生活を送ったとしたら──。

 結果論であるが、今日の創価学会の発展があったかどうか疑問である。



恩師を守るため あえて茨の道を選んだ                             

戸田大学の個人教授があって世界からの栄冠がある



 日本正学館の社員は、新しく発足した東京建設信用組合の業務を引き継いだ。

 出版編集から金融事務へ。池田青年にとって青天のへきれきだったと言ってよい。

 組合の業務が始まったのは昭和二十四年(一九四九年)十二月四日である。鉛色の雲から冷たい小雨がふる日曜日だった。

 事務所に向かう足取りは重い。気分も晴れなかった。まったく畑ちがいの信用組合の仕事は性分にあわない。

 さらに追い打ちが、かかった。それまで夜学で大世学院(現・東京富士大学短期大学部)に通っていたが、年が明けて昭和二十五年正月、恩師から言われた。

 「君が頼りだ。仕事もますます忙しくなる。ついては、夜学のほうも断念してもらえないだろうか」

 すでに覚悟があったのか。

 「喜んでやめます。必ず事業を立て直して、先生をお守りします」

 大目的のために、己を捨てた──。この決断こそ、池田会長の人生と、学会の未来を決定づけた「大英断」だったと多くの識者が見る。

 日本の宗教社会学の第一人者であった、安斎伸(あんざいしん)(上智大学名誉教授)。池田会長の人生について語っていた。

 「その原点には、戸田第二代会長に自らの人生を投じた、青年の純粋な『賭け』があったと、私には思える」

 「牧口初代会長と戸田二代会長が生命を賭して貫いた信仰に、池田会長も賭けた。その初心、生き方を貫くことで信仰を深化させ、揺るぎない基盤を築かれたのでしょう」

 打てば響く。愛弟子の申し出は師を喜ばせる。責任をもって、個人教授することを約束した。

 この「戸田大学」こそ「池田青年の十年」の芯をなし、一対一の陶冶に、やがて世界の知性も刮目する。

 乾坤一擲(けんこんいってき)を期した新規事業であったが、昭和二十五年の春には、早くも暗雲が色濃く漂いはじめる。

 社会は金融難である。借り入れの申し込みは引きも切らないが、貸し出す資金が一向に増えない。

 次々と寄せられる借り入れ申し込み。その一割にもこたえられない。

 戸田城聖は資金を調達するため、ありとあらゆる手を講じて、血路を開いた。

 その先兵となって、東奔西走するのが、池田青年の役割だった。

 出資を募り、返済を依頼する。誰もやりたがらない仕事。みな逃げ去った。それでもなお、ひたすら前へ進むほかなかった。

 五月に入ると預金と支払いのバランスが目に見えて崩れはじめた。六月の中旬には預金の払い戻しが急激に増え、七月には取り付け騒ぎも起きかねない事態になった。

 「先生の事業、非常に、苦境の模様。内外共に、その兆候あり」(七月十六日の日記)

 牧口門下の実業家グループは、利あらずと見るや、われ先に戸田城聖のもとから離れていった。



 激浪の日々



 退職して戸田理事長のもとを去っていく社員も出はじめた。池田青年の上司までもが師への批判を口にする。

 ──牧口常三郎初代会長がよく引用しては、からからと笑っていたという御書の一節がある。

 「螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲(かささぎ)が鸞凰(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし」

 戸田理事長は、悠然としている。

 今に始まったことではない。大人ほど、ずるい。信じられない。戦時中からの教訓である。頼むべきは青年である。



 昭和二十五年(一九五〇年)夏。

 じりじりと照りつける日差しは、池田青年の体力を急速に奪った。砂ぼこりが舞いあがる乾いた道を、一軒また一軒と、ひたすら歩く。

 汗だくの一日を終え、やっとの思いで大森のアパートに帰るころには日付が変わっている。

 狭い部屋に横たわり、天井をあおぐと、のどの奥で痰がからんだ。あいかわらず病んだ肺の具合は思わしくない。体重も十三貫(約四十八キロ)を切った。

 当時の激闘を垣間見た、草創の会員の回想。

 「よく鶴見を走り回っておられた。その時、使っていたカバンが、もうボロボロに使い古したものだった。まるで何十年も使っているようなカバン。戦いの凄まじさを物語っていた」

 「大変に痩せておられた。外回りで疲れ果て、途中で一息入れなければ歩けないようなこともあった。そうしたときは倒れこむように横になり、とても声などかけられる様子ではなかった」

 当時、「日本婦人新聞社」に勤めていた森田秀子。

 秋葉原で通勤電車を乗り換えると、時折、池田青年と顔を合わせた。多くの人間が戸田城聖を裏切り、罵っていたころである。

 ある朝、ボーッと駅のホームに立っていると、背中から声をかけられた。

 「何があっても、創価学会と共にね! 戸田先生と共にね!」

 池田青年が創価学会に入会したのは、あくまでも戸田城聖個人への傾倒である。

 その師を先輩たちは見捨て、難破船から逃げるように遠ざかっていく。

 快活な響きの奥に込められた苦衷を森田が知ったのは、ずっと後のことである。ようやく分かりはじめた。

 「青年として、絶対に許せない。あの日の言葉は、ご自身の固い決意でもあったのでしょう」

 あんな人間にはなりたくない。裏切り者にだけは、なりたくない。

 日記に「波浪ハ、障害ニ、遇フゴトニソノ頑固ノ度ヲ増ス」と書き、力闘を続けた。



 この時、戸田城聖のもとを離れた者たちが、その後どうなっていったか、一例を挙げたい。

 いったんは、戸田理事長の信用組合に出資しながら、計算高く、すぐさま引き上げる人がいた。

 彼らは、利回りのいい"街金(まちきん)"があると聞くと、たちまち乗りかえた。新宿区角筈(つのはず)(現・西新宿)にあり、当時は有名だった「西村金融」も、その一つである。

 「月三分~五分の利子を前払い、元本は満期前に返済」をうたい文句に、多額の金を集めた。

 だが、実際は自転車操業の実態を隠した、悪質な詐欺であり、後に摘発された。被害者の中には、戸田理事長の会社から乗りかえた者が何人もいた。出資金は一円も戻らなかったという。

 そのころを知る学会幹部の証言。

 「戸田先生の事業が悪化したとき、口ぎたなく罵る会員がいた。不思議と、そういう人間のほとんどが、のちに詐欺に引っかかったり、仕事に失敗して破滅した」

 八月中旬になった。

 最大の問題は貸し付けに回す資金の不足である。

 病巣は誰の目にも明らかだったが、この期におよんでも信用組合の役員たちは傍観している。

 そればかりか、事業が危機に瀕していることを知るや、なにやかやと理由をつけては、自分の預金を引き出そうとした。

 戸田城聖が模索してきたのは優良組合との合併である。しかし、お荷物と分かっていながら、自らリスクを背負いこむ組合など、あろうはずがない。

 最後の手段として、大蔵省に合併先のあっせんを申請したのである。

 当局の回答を待つ間も預金の払い戻しは止まらない。むしろ日を追うごとに増えていった。

 東京建設信用組合は、遂に重大な局面を迎えるにいたったのである。



時代と背景

 世界の文学を友とする青春時代だった。シラー、カーライル、プラトン、ルソー、エマソンモンテーニュユゴー……。いかなる状況にあっても向学心は衰えない。ホイットマンの『草の葉』を何度も読み返す。「さあ、出発しよう!悪戦苦闘をつき抜けて! 極められた決勝点は取消すことができないのだ」(昭和24年刊、富田碎花訳)という一句も胸に刻んだ。